ep. 6 夜の反省:理性が追いつかない感情
アパートに戻ると、真は明かりをつける前に、そのまま床に座り込んだ。
部屋の空気は少し冷えていて、ふいに現実へと引き戻される感覚があった。図書館から別れて、わずか二十分ほどしか経っていない。それなのに、未唯を思考から切り離すことがまるでできなかった。
鞄を投げ出し、真は深く息を吐いた。
「……なんなんだ、あれは」
独り言が、部屋の静寂に吸い込まれていく。
広曽木真は、感情を整理することに慣れている。
怒りや悲しみ、喜びですら、ある程度の枠組みで理解し、分類し、処理可能なものとして扱ってきた。
それが彼の“処世術”でもあり、“生存戦略”でもあった。
しかし未唯に対して生じるものは、いつもの分類枠に収まらなかった。
思考と言葉が追いつかない。
分類しようとすると、感情が抵抗する。
客観視しようとすると、心臓の鼓動が邪魔をする。
「……好きって、なんだ?」
呟きは哲学的であり、同時に情けなくもあった。
真はノートパソコンを開いた。
“好き 定義”と検索窓に打ち込もうとして、止めた。
──こんなことを検索してどうする。
──未唯と話すための“基礎研究”のつもりか?
──いや、自分の感情を理解したいだけか?
指が宙で止まっていた。
その姿勢のまま、ふと、未唯の声が頭をよぎる。
『わたし……“好き”って、どこに置いたらいいか分からない』
その言葉を思い出した瞬間、真の鼻の奥がツンと痛んだ。
まるで、他人の弱さに触れてしまったときに生まれる、静かな感情の疼き。
「……俺もだよ」
机に突っ伏し、顔を伏せる。
未唯の表情が何度も浮かび上がる。
あの少し不安定な笑み。
感情よりも理性が先行する喋り方。
言葉の選び方が拙いのに、どこか純粋で、強い芯がある。
そして──
“広曽木くん”と呼びかける声だけが、なぜか胸の奥に残る。
真は両手で顔を覆った。
「……好きなんだろうな、もう」
そこにはもう、否定の余地がなかった。
それほどまでに、未唯という現象は真の中で中心を占めていた。
だが同時に、彼の理性は冷酷に告げていた。
──これは“他律”だ。
──Neigung(傾向性)だ。
──カント的には、こんな好きは意味を持たない。
それが気に食わなかった。
感情が理性に否定される感覚は、真にとって“侮辱”にも等しかった。
「……俺は俺のやり方で、好きの意味を作ればいい」
その決意は固いようでいて、まだ柔らかい。
ただ、未唯と話したいという願望が、理性のフレームより前にある。
しかし、真はまだ知らなかった。
この“揺らぎ”こそが、彼の人生を静かに変えていく第一歩であることを。
⸻
◆◆◆
一方そのころ、未唯もまたアパートに戻っていた。
薄暗いワンルームに入り、鞄を置くと、靴のまま立ち尽くした。
「……疲れた」
その言葉は、肉体の疲労ではなく、もっと深いところからこぼれ出たものだった。
未唯は部屋着に着替え、湯を沸かし、コップにお茶を注ぐ。
湯気がゆらめく。
その立ち上る白さを見つめていると、真の言葉が次々と蘇ってきた。
『未唯が分からないなら、一緒に考えたい』
『返事はいらないよ』
『分からないままでいいよ』
――どうして、あんなふうに言えるの?
未唯はテーブルに突っ伏しそうになりながら、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じてしまった。
「……やめてよ、広曽木くん」
その声には、少しだけ震えがあった。
「そんなふうに言われたら……わたし、分からなくなる」
未唯はこれまで、誰かに“好き”と向けられたとき、
いつも身構えていた。
“返さなきゃいけない”
“期待に応えなきゃいけない”
だから、逃げるように断ったこともある。
曖昧な関係のまま距離ができて終わったこともあった。
しかし真の態度は、それとはまったく違った。
彼は未唯に期待しない。
答えを求めない。
ただ、「一緒に考える」という形で隣に立とうとする。
それが、未唯には理解できなかった。
理解できないのに、胸の奥が熱くなる。
「……これ、なんなの?」
未唯は自分の胸に手を当てた。
鼓動が、いつもより早い。
“好き”じゃない。
“恋”でもない。
そんなことは分かっている。
だけど──
広曽木真という存在が、
今日、あまりにも大きく心に入り込んでしまった。
それが恐ろしくて、
でも、どこかで落ち着くような感覚があった。
未唯は小さく息を吸って、言葉にしてみる。
「……広曽木くんの言葉って、優しいんじゃなくて……誠実なのかもしれない」
その“誠実”が、未唯の心をそっと撫でた。
優しさよりも強く、暖かく、そして痛かった。
未唯は膝を抱え、暗い部屋で静かに目を閉じた。
「……好き、ってなんなんだろう」
その呟きは、夜に溶けた。
こうして真と未唯は、別々の部屋で、同じ問いを抱え始めた。
“好きとは何か”
そして
“義務とは何か”
この二つの問いが、まだ接点を持たないまま、静かに彼らの人生を侵食していく。
それは、恋の始まりではない。
関係の始まりだった。
そしてその関係は、すでに二人の世界の構造を変え始めていた。




