ep. 59 未唯に芽生える微細な羨望
未唯が目を伏せたまま沈黙した瞬間、空気がわずかに揺れた気がした。
教室の蛍光灯の白い光が、彼女の髪の細い線を淡く照らし、影の輪郭をやわらかくしている。
昼下がりの哲学科棟は静かで、廊下の向こうから届くかすかな話し声さえ、ここでは別の世界の音みたいに遠かった。
「……真くんは、ずるいよね」
ぽつりと漏れた声は、責めるようでも、羨むようでも、拗ねるようでもあった。
だがそのどれでもあり、どれでもなかった。複雑な感情が混ざり合う前段階のような、言葉になる前の“感覚”だけが表面に浮かんだみたいな声だった。
「ずるいって、何が?」
俺が聞くと、未唯はペン先をノートの端で遊ばせるみたいに軽く回しながら、言葉を探すように小さく息をついた。
その仕草も、昔はただの「癖」だと思っていたが、今はその奥にある思考のざわめきが見える気がして、視線を逸らすことができなかった。
「……“好き”の話をするとき、真くんって、自分の感情をちゃんと見つめて、その形を説明できるでしょ。
それが、その……羨ましいの」
未唯は自分の胸のあたりを、迷うように指で押さえた。
「私には、そういうのが、まだ無いから。
感情の輪郭を見ても、それが何なのか、どう扱えばいいのか、わからないまま流れていっちゃう。
“好き”って言葉の中身も、真くんの言う“未来志向”とか、“独占欲”とか、“利他的な気持ち”とか……そういうのが、ちゃんと自分の中で仕分けられないの」
未唯の声は淡々としているようで、その実、いつもより息が少し早かった。
抑えようとしても抑えきれない焦りの熱みたいなものが、語尾の震えとなって表れる。
「俺だって全部わかってるわけじゃないよ」
俺は言ったが、未唯は首を横に振った。
「違うよ、真くん。
“わかろうとしてる”ところが、もう羨ましいの」
その言葉の重さに、胸が少しだけ痛くなった。
未唯の羨望は、俺に向けられたものというより、自分がまだ掴めていないものへの焦りに近かった。
「感情の形を、自分で決めることができたらいいのに。
“これが好きで、これが違う”って線を引けたら……そしたら、誰かに好きだって言われたときも、もっと上手に受け取れるのかなって。
でも私は、まだ全部がぼやけてて……だから、羨ましいの」
未唯は言ったあと、ほんの少し笑った。
その笑みは柔らかいが、どこか自嘲の気配を含んでいた。
俺は言葉を選びながら、ゆっくりと応じた。
「未唯の言ってる“羨ましい”ってさ……それ、多分、悪いことじゃないよ。
それって未唯が、自分の感情に形を与えようとしてるって証拠だろ。
俺だって、最初から全部言葉にできたわけじゃないし、未唯と話すうちに気づいたことも多いんだ」
未唯は俺の方を向いた。
その視線は弱さを見せているわけではなく、むしろ“理解しようとする強さ”の色を帯びていた。
「……ねえ、真くん」
「ん?」
「私ね、ずっと、“価値承認”って判断の話だと思ってた。
でも、真くんが言うみたいに、相手の生きてきた軌跡とか、癖とか、言い方とか……そういう小さなものまで全部ひっくるめて“価値”だって思えるのって、すごいことだと思うの。
私には、まだできないから……だから少しだけ、羨ましい」
未唯は、そう言いながらほんの一瞬、俺の胸元あたりに視線を落とした。
その目は、何かを測るようでもあったし、何かを確かめるようでもあった。
「未唯は、ちゃんと前に進んでるよ」
俺は言った。
「俺の言葉を羨ましいって感じたことだって、未唯の中に“価値承認”の芽が出始めてるってことだと思う」
未唯は、驚いたように目を大きくした。
「……そんなふうに考えたこと、なかった」
「羨望ってさ、“自分にもそれが欲しい”って感覚だろ。
だったら、それってもう価値承認の一部じゃない?
未唯は、俺の考え方の中に、何かしら価値を見つけたってことじゃん」
未唯の表情に、ほんの小さな赤みが差した。
耳のあたりまで薄く紅潮していき、彼女は思わずノートで顔を隠すようにした。
「……ほんと、真くんは、ずるいなあ」
またその言葉だった。
けれど、さっきのそれとは違う。
今の“ずるい”には温度があり、かすかな優しさが含まれていた。
未唯はしばらく黙り込んだあと、ノートの端に静かに書いた。
――“羨望は価値承認の入口”。
その小さな文字を見たとき、未唯がついに“価値の感覚”に触れ始めたのだと、俺は直感した。
彼女の中で、ぼやけていた輪郭が少しずつ形を成していく。
その最初の揺れが、今ここにある。
そしてその揺れは、未唯自身が気づかぬまま、確かに俺へと向けられていた。




