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好きがわからない君へ告白したら、カント倫理学でフラれました。 ――それでも僕たちは、自律から始まる恋を続けていく  作者: 目田 不識(めた・ふしき)
第5章 好きの多義性

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ep. 58 “母概念としての好き”の提示

 未唯が問いかけた「どれが本当の好き?」という素朴な疑問は、そのまま真の思考の中で、じわじわと形を変えながら膨らみ続けていた。性的欲望、行動傾向、利他的配慮、未来志向、独占欲──それらを一つずつ分析すれば、無数の異なる「好き」が生まれる。しかし、もしそれらをすべてひとつの傘の下に収める“母概念”があるのだとしたらどうか。


 真はその可能性についてずっと考えていた。未唯と並んで歩くたび、彼女がページをめくる仕草を見るたび、真の注意は彼女に吸い寄せられた。だがそこにあるのは単なる関心ではない。もっと根源的で、名づけられていないものがある。未唯を守りたいと思う自分、話を聞きたいと思う自分、近くに座ってほしいと思う自分──そのすべてをつらぬく一本の糸のようなものが、確かに存在していた。


 ある日の帰り道、大学正門前の夕暮れの坂道で、真はその“糸”について口を開いた。


「……多分だけどさ。好きって、どの種類が“本物”かを決めるんじゃなくて、全部をまとめてる何かが先にあるんだと思う」


 未唯が横顔を向ける。彼女の瞳は、いつも通りわずかに戸惑いを帯びていた。理解しようという意志はあるのに、感情の輪郭が曖昧なまま霧の中に置かれている──そんな目だ。


「真くんは……その“まとめてる何か”があるって思うの?」


「ある。というか、ないと説明できないことが多すぎる」


「ないと説明できない……?」


 未唯がゆっくり頭を傾ける。真は歩みを止め、カバンの肩紐を持ち直しながら続ける。


「例えばさ。未唯を見て心が動く瞬間って、毎回違う理由があるんだ。声だったり、言葉だったり、考え方だったり。でも、その理由が全部違うのに、僕の中では“同じ方向に向かってる心の動き”になってる。理由はバラバラなのに、出てくる答えはいつも“好きに属する何か”。だったら、その上にはもっと大きなカテゴリーがあるはずじゃないかって」


「カテゴリー……母概念としての好き……みたいな?」


「そうそう。それだよ」


 未唯は足を止めたまま、しばらく空を見上げた。夕日に染まる薄い雲が、風で横に流れていく。彼女の表情には、いつも通り迷いと戸惑いがあるが、そこに微かな理解の兆しも混じっていた。


「もし……母概念としての“好き”があるとしたら、それはどんなものになるの?」


 真は答える前に、少し呼吸を整えた。自分でもまだ輪郭が掴みきれていない考えを、言葉にして渡そうとしているのを自覚していた。


「……うまく言えないけど。好きって、ただの感情じゃなくて、評価でも行動衝動でも未来への志向性でもない、もっと根本的な“方向性”みたいなものなんだと思う。矢印みたいな」


「矢印……?」


「そう。僕の心が未唯の方に向かってしまう。理由は毎回違うのに、向きは変わらない。好きって、その“向いてしまう現象”そのものなんじゃないかな」


 未唯は胸元で手を握りしめ、少し眉を寄せた。


「……向いてしまう、って……原因がわからなくても、向くってこと?」


「うん。何でかは説明できない。でも向く。それが母概念としての好きなんだと思う」


「……それは、ちょっと怖いね」


 未唯は小さく微笑んだような、泣きそうなような、複雑な顔をした。


「怖い?」


「だって……理由があるほうが安心するじゃない。私のどこが良いのかとか、何があなたを動かしてるのかとか……ちゃんと説明がつく方が、私でも理解できる。でも“向いてしまう”って……その……私には、まだ受け止められる自信がないよ」


 未唯の声は震えていない。けれど、その震えを押し殺すような静けさを含んでいた。真は彼女の不安を無視できなかった。


「それでも僕は、全部同じカテゴリーに入ってしまう理由を知りたい。未唯の声を好きだと思った理由も、話した内容を尊重したくなる理由も、守りたくなる理由も。全部違うのに、全部“好きの一部”になってしまう。その中心に何があるのか──それを探さなきゃいけない気がするんだ」


 未唯は静かにうなずいた。


「……真くんは、そうやって“中心”を探すんだね。私は逆で……中心なんてないんじゃないかと思ってしまう。だって私は、どの感情もよくわからなくて、全部が曖昧だから……」


「未唯、中心はあるよ。君が気づいてないだけで」


「……気づけるのかな」


「きっと。ゆっくりなら」


 未唯は沈黙し、だが逃げるような気配はない。風に揺れる髪の間から見えた横顔は、不安と、それでも知りたいという小さな意志で揺れていた。


「……母概念としての好きっていう考え方、まだわからないけど……その方向性っていうのは、少しだけ理解できる気がするよ」


 未唯はそう言いながら、足元のアスファルトを見つめたまま、声を落とした。


「真くんの心が、私の方に向くって話……それは、嬉しくないわけじゃないんだよ。ただ……その方向が、どれくらいのものなのか……私には、まだ測れないだけ」


 真はその言葉を聞いたとき、胸の奥に熱いものが広がるのを感じた。未唯は“否定”ではなく、まだ理解できていないだけだと言ってくれた。そこにあるのは拒絶ではなく、学ぼうとする意志だった。


「測らなくていいよ。僕もまだ測れてないし。だから一緒に考えたいんだ。こういう“中心”の話」


 未唯はほんの少しだけ息を吐き、頬を緩めた。


「……それなら、少しずつね」


 その一言は、真にとって「前に進む許可証」のように感じられた。母概念としての好き──すべての好きの形を包括する大きな概念。まだ輪郭は曖昧だが、二人のあいだにはその探求を続けるための小さな合意のようなものが生まれつつあった。


 坂の途中で止まっていた二人は、再び歩き始めた。夕日が坂の下へ沈む直前、その光が二人の後ろ姿を長く伸ばしていた。まだその影は重なっていない。それでも、向いている方向だけは、確かに同じだった。

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