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好きがわからない君へ告白したら、カント倫理学でフラれました。 ――それでも僕たちは、自律から始まる恋を続けていく  作者: 目田 不識(めた・ふしき)
第5章 好きの多義性

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ep. 57 真「全部が“好き”の派生なんだ」

 夕方の図書館は、天井の照明が少しだけ黄味を帯びて、昼間よりも柔らかい影をつくっていた。閲覧席にはまだ学生がそこそこ残っていたが、そのざわめきは本のページをめくる音に吸われて消えていく。真と未唯は、窓際の四人席を斜めに使って向かい合っていた。


 未唯が「どれが“本当の好き”なの?」と問いかけてから、しばらく沈黙が続いていた。ノートの上に置かれたシャーペンの先だけが、真の指の動きに合わせてかすかに左右へ揺れる。


「……全部だと思うんだよ、未唯」


 真が静かに言った。声は大きくないのに、周囲の空気だけが一瞬そちらへ向いたように感じた。


「全部?」

「うん。性的欲望も、行動の傾向も、利他的な気持ちも、未来のことを考えちゃうのも。ああいうのって切り離せるものじゃなくて、一つの感情がいろんな形で表に出てるだけだと思う」


 未唯は少し首を傾げる。癖のように、彼女は議論の途中で自分の髪を耳にかけた。


「でもさ、それじゃあ“好き”って言葉が広すぎない? 性的な欲望も、優しさも、未来を考えるのも、同じ一語でまとめちゃうのは……なんか違和感あるよ」


「あるよ。めちゃくちゃある。でもね、たぶんそれって“母概念”なんだと思う」


「……母概念?」

「そう。たくさんの下位概念をまとめる、一番上の器みたいなやつ」


 真は手元のノートに大きな円を描いた。その円の中に、小さな円をいくつも入れていく。


「ここが“好き”なんだよ。で、こっちが性的欲望、こっちが利他的なもの、独占欲、未来の想像……そういうの」


 未唯はその図をじっと見つめていた。まるで円の中に、真の心そのものが描かれているように感じたのかもしれない。


「じゃあ……真くんの“好き”は、その全部があるの?」

「あるよ。もちろん全部が同時に100%で動いてるわけじゃない。でも、少なくとも未唯に対しては、どれもゼロじゃない」


 未唯のまつげがぴくりと揺れた。その反応はほんのわずかだったけれど、確かにそこにあった。


「……そう言われると、なんか……重くない?」

「逆かもしれないよ。たとえばさ……」


 真は指で小さな円をひとつ示した。


「これだけで“好き”って言われても、僕はちょっと困る。性的な欲望だけとか、独占欲だけとか、一部に偏ったものを“好き”って呼ぶほうが、なんか危うい感じがする」


「ふむ……」

「でも全部が乗っかってくると、“好き”っていう言葉がようやく意味を持つ気がするんだ。欠けているものがあると不十分に感じるし、揃ってくると『あ、これは好きだ』って分かるようになる」


 未唯はペン先で机を軽く叩きながら考えている。彼女が納得したいときの癖だ。


「……真くんは、その“全部”を、わたしに対して経験してるの?」

「してるよ。最初は混乱してたけど。今はけっこうはっきりしてる」


 未唯は目を伏せた。少しだけ頬が赤い。それは照れと、理解が追いつかない戸惑いが混ざった色だった。


「ごめん……わたし、真くんが何を見てるのか、まだ全部分かってない」

「じゃあ、ゆっくり分かればいいよ。今すぐじゃなくていい」


 真はやわらかく言ったが、その声にはどこか切実さも混じっていた。


 未唯は何か言い返そうとしたが、結局言葉にはならず、視線だけが窓の外へ向いた。夕暮れの光が弱まり、街路樹の影が伸びていく。


「好きって……複雑なんだね」

「複雑だよ。でも、複雑なままでいいんだと思う」


「わたしは……」

「ん?」

「今はその円のどこにいるのか分からない。でも……どこかには、いる気がする」


 その言葉はとても静かだった。けれど真には、それがこの日の議論のどれよりも強く響いた。


「うん。いるよ。絶対に」


 未唯はその返事に、なぜか少し顔をしかめた。


「……なんでそんな自信あるの?」

「分かるんだよ。未唯は、僕の言葉を全部受け止めて考えてくれるでしょ。それってもう、好きの円のどこかに立ってるってことなんだと思う」


 未唯は返事をしなかった。けれど、その沈黙には拒絶の気配はなかった。


 真はその沈黙を、彼女が「何かを確かめようとしてる時間」だと理解した。


 夕闇が図書館に沈み込んでいくなか、二人の間には静かであたたかな気配が流れていた。感情としてはまだ遠い、しかし理解としては確実に近づく――そんな距離感。


 真の描いた円の図はノートの上に残されたまま、彼らの議論がひとつ先へ進む合図のように静かに光を反射していた。

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