ep. 56 未唯「どれが本当の好き?」
「ねえ、真くん。」
講義終わりの教室。学生たちの足音が次第に遠ざかって、空気がようやく落ち着く。未唯は席に座ったまま、手元のノートをぱたりと閉じた。その指先が少し震えている気がして、俺は横目でそっと覗いた。
「どうしたの?」
「……さっきの話、まだ気になってて。」
“好きは多義的で、欲望も独占も、未来の想像も、行動傾向も、全部が好きのバリエーションだ”ーーそう俺が話した直後の続きだ。
未唯はゆっくりと俺の方に向き直る。眉がほんの少し寄っている。悩んでいるときの、あの癖だ。
「真くんは、『全部が好きに含まれる』って言ったよね?」
「まあ、そうだと思うよ。種類が違うだけで、全部“好き”の派生だし。」
「うん。でも……」
そこで言葉が切れた。未唯はしばらく黙ったまま、机の木目を指でなぞっていた。何かを探っているような、確かめているような仕草。
そして、ふっと息を吸う。
「じゃあ、どれが“本当の好き”なの?」
その問いは、まっすぐだった。逃げ場も余白もない。
俺は軽く息を詰める。思っていたよりずっと、核心に届く問いだった。
「本当の、って……どういう意味?」
「だってね、好きっていろいろあるじゃない?」
未唯はゆっくり指を折っていく。
「会いたいと思うのも好き?
大事にしたいと思うのも好き?
独り占めしたいのも好き?
未来を考えちゃうのも好き?」
指が四本折られたところで、未唯はそこで止めた。
そして、まるで自分に聞かせるように小さくつぶやいた。
「……じゃあ、恋愛の“好き”って、どれ?」
未唯の声は、少し揺れていた。
たぶん、彼女にとって“好きの内容の多さ”は不安そのものなのだろう。
言語化が苦手で、感情の形がまだ見えていなくて、
そのうえ「好き」という概念自体が多義的だとしたら、そりゃ混乱する。
「恋愛って、どれが決め手なの?」
「好きって……一つに決められないの?」
視線が俺に突き刺さる。
未唯は必死だった。
自分の感情がどういう性質なのか、何を指せば恋になるのかーーその“座標”を探している。
だから俺は、できるだけゆっくり、噛みしめるように答えた。
「未唯、『本当の好き』ってひとつじゃないんだと思う。」
「……え?」
「“好き”を一つの要素で説明しようとすると、きっと何かがこぼれ落ちる。
だって、好きになると、欲望も、気遣いも、未来の想像も、行動傾向も、
全部いっしょに動き出すから。」
未唯の目がわずかに揺れる。
「ひとつ“これが好きの本質!”って決められたら、たぶん楽なんだろうけど……現実はそうじゃない。好きは一つの中心から枝分かれした現象じゃなくて、最初から束になって現れる感情なんだ。」
束ーー未唯はその言葉を胸の中で転がすように、ゆっくり瞬きをした。
「だからね……
どれが“本当の好き”かを決めるんじゃなくて、
“全部を好きと呼んでいい”んだよ。」
「全部……?」
「そう。欲望も、羨望も、優しさも、独占も。
好きって感情の中では、それらの境界はそんなに固くない。」
未唯は黙り込んだ。
でもその沈黙は、前みたいな“拒絶の沈黙”ではなかった。
むしろ、言葉の奥に沈んでいく時間だった。
「じゃあ……」
小さな声がこぼれる。
「私が……“わからない”のは、どれが恋愛の好きか決められないからなんじゃなくて……」
未唯は唇を噛んだ。
「……“全部が好き”っていう、その状態に、まだなれていないから……?」
言った瞬間、未唯ははっとしたように顔を伏せた。
自分で自分の感情を暴いてしまったような照れと混乱が入り混じっている。
俺はゆっくり首を振る。
「慣れなくていいよ。
むしろ、ひとつずつゆっくり見つけていけばいい。」
「ひとつずつ……?」
「未唯にとっての『好き』を。
どの感情が今、どれだけ動いてるか。
どれを大切に感じるのか。」
未唯は顔を上げた。
まっすぐ俺を見た。その瞳にはまだ迷いがある。でも、迷いの奥に、かすかな光が見えた。
「……真くんは、どうやって気づいたの?
“これは好きだ”って。」
少し照れくさくなって、俺は目を逸らす。
「俺は……気づいたら、全部が未唯に向かってた。
それだけだよ。」
未唯の頬がうっすら赤く染まる。
「……ずるい。」
ふっと、微笑んだ。
その笑みは、これまでのどの表情よりも柔らかかった。
そして、未唯は小さな声で言った。
「私……もう少し、自分を観察してみる。
“どれが好きか”じゃなくて、
“どれが私の好きの一部なのか”って。」
その言葉は、未唯なりの大きな前進だった。
俺はただ、静かにうなずいた。
――未唯の心が、わずかに動いた。
その揺れはまだ小さいけれど、確かにそこにあった。




