ep. 55 独占欲
未唯の部屋は、夜になるといつも静かだった。
窓を少し開けているせいで、外の風がカーテンを揺らし、規則正しい紙の擦れる音が空間に落ちていく。その音の合間を縫うように、真の声だけが柔らかく響いていた。
「……未唯。独占欲ってさ、たぶん“好き”の内部にある、もっと面倒で、もっと正直な部分じゃないかと思うんだよ」
彼はそう言って、自分の手元のノートを閉じた。
今日の議題は多義的な好きの構成要素。その中でも「独占欲」は、なぜか未唯が一番反応に困る項目だった。
未唯は膝を抱え、真の視線から一度逃げるように、机の下に置いた自分の足先を見つめた。
「独占欲……か。なんだか、あんまり綺麗じゃない言葉に聞こえるね」
「まあね。でも綺麗じゃないからって、排除できる種類の感情じゃないだろ。
むしろ“好き”が強まるにつれて、自然と出てくる気がする」
真が言うと、未唯は小さく眉を寄せた。
その表情は、いつも通り「わからない」というサインだったが、今日はそれに少しだけ別の陰影が混じっていた。
「真くん……その、“独占欲”って、どういう形で出てくるものなの?」
「んー……たとえばさ。未唯が、他の誰かとずっと話してたら……俺はちょっと嫌かも」
少しだけ笑って言ったつもりだったが、未唯は目を瞬かせて、すぐに視線を伏せた。
「……それって、好きってことなの?」
「そうじゃないと説明つかない、って思う。
独占欲って、相手に向けた“所有”じゃなくて、“注意の偏りを守りたい欲求”なんだよ」
「注意……」
未唯はその言葉を反芻した。
独占欲=注意の維持。
これは未唯にとって、新しい視点だったらしい。
真は続けた。
「俺は、未唯が誰を見て、誰に心を動かすか……それに敏感なんだと思う。
未唯の視線が俺じゃなくなる瞬間を、できるなら減らしたい。
……それが独占欲だと思う」
未唯はゆっくり顔を上げた。
その瞳は真に向いていたが、何かを探すように揺れていた。
「……それって、自分のわがままじゃないの?」
「わがまま、だよ。でも、“好き”ってたぶん、少しわがままで成り立つ部分がある。
誰にどう見られたいか、誰に触れられたいか、誰に名前を呼ばれたいか。
全部、偏ってる。普遍化できない。
だから、あえて認めた方がいい。
“偏った感情がある”ってさ」
未唯は膝の上で手を握りしめ、少し躊躇してから口を開いた。
「真くんは……その、私に“独占欲”を持ってるの?」
「うん。そりゃ、持ってるよ」
あまりにあっさり言うから、未唯は一瞬だけ固まった。
まるで瞬間的に色を変える絵の具みたいに、頬がかすかに赤く染まった気がした。
「でもね、それを行為として押しつけたら、ただの支配欲になる。
だから、それは“感じるだけのもの”で、行動には移さない。
未唯に選ぶ自由がある前提で、ただ嫉妬したり、苦しくなったりする。
……それが“感情としての独占欲”だと、思う」
未唯はその言葉で、ようやく息を吐いた。
理解したというよりも、納得に少しだけ触れた、そんな表情だった。
「じゃあ……好きの中には、“自由を認めながら、奪いたくなる気持ち”があるってこと?」
「そう。それは矛盾に見えて、矛盾じゃない。むしろ好きの本質に近い。
だって、相手が自由じゃないと、好きになっても意味がないから」
「難しいね……」
未唯はぽつりとつぶやいた。
けれどその声の端に、どこか安心の色があった。
彼女は初めて、自分の中にも小さな、ほんの微量の「独占欲」の影があることを認めたのだ。
真は気づかないふりで、ノートを開き直す。
「未唯。独占欲はね、“形にならない好き”の一番根源にあるんだと思う。
美しさとか利他性とか未来志向とか、それよりずっと手前にある。
言語化できない、未成熟な感情」
未唯は胸に手を当てて言った。
「……じゃあ、私が真くんのことを考えるとき、胸が少しだけざわつくのは……その、独占欲の入り口なの?」
真はほんの少しだけ目を見開き、ゆっくり息を吸った。
けれどあえて軽い調子で返した。
「入り口、だと思うよ。まだ名前はつけられないけど」
未唯はうつむきながら、しかし確かに笑った。
その笑顔は、独占欲という言葉の“わがままな温度”に救われたようでもあった。
「私、真くんが誰かに取られるのは……ちょっと嫌かもしれない」
「……それは、つまり?」
「わ、わかんない! わかんないけど!
でも、嫌なのは嫌……」
真は一瞬だけ言葉を失った。
未唯が初めて“誰かに抱いてはいけないはずの感情”を、正面から認めた瞬間だった。
その夜の空気は、不思議と甘さが混じっていた。
独占欲という醜いはずの感情が、未唯にとって“温度のある好き”への入口になりつつあった。




