ep. 54 未来志向
その日、大学の図書館は珍しく混んでいた。試験前というわけでもないのに、人が多い。窓際の席はすべて埋まっていて、僕と未唯は、少し離れた棚の影になった二人掛けの机に並んで座った。妙に静かな空間だった。人が多い分、騒がしさが増すかと思いきや、逆だった。ざわめきが吸音材みたいに広がって、かえって自分たちの仕草が浮き上がる。
僕はノートを広げながら、ちらりと横を見る。未唯は分厚い『判断力批判』の英訳を開きつつ、付箋を貼ったり外したりしていて、相変わらず落ち着きがない。それなのに、読むときだけは妙に一点に集中する。目が紙に吸い込まれるようなあの姿勢——あれを見るたびに、僕は理由もなく胸がざわつく。
「……真くん、さっきの続きだけど」
不意に声をかけられて、僕はペンを止めた。未唯はページを押さえたまま、首だけこちらに向けている。額にかかった髪が、図書館の白い光に透けた。
「“未来志向”が、好きに含まれるって言ったよね?」
「うん。まあ、一般的な話だけど」
「それって……どういう意味で? 恋愛、っていう話?」
未唯の質問には、「感情の定義として何が含まれるべきか」を確認する、真面目な色があった。それでも僕は、少しだけ身構えた。彼女が“恋愛”という単語を口にするのは珍しい。いつも“関係性”とか“傾向性”とか言い換えるからだ。
その単語を彼女の口から聞くだけで、意味以上の重みが生まれる。
「恋愛に限らないよ。ただ……“好き”が続くと、人って勝手に“未来”を考えるようになる」
僕はノートに円を描いた。
「行動傾向や価値承認が、短期的な“いま”を中心にしてるのに対して、未来志向ってのは時間軸が伸びるんだ。たとえば——また会いたい、とか」
「……会いたい」
「そう。今日楽しかったから、明日も一緒に帰りたい、とか。話してる時間が心地よかったら、次の約束をつくりたくなる。未来志向ってのは、好きが時間を延長する現象なんだよ」
僕はできるだけ客観的な表現にとどめた。余計な期待を持たせる気はないし、何より彼女は恋愛について慎重すぎるほど慎重だ。それに、僕自身も彼女に過度な圧力をかけたくない。
「……真くんは」
未唯が、ページを閉じる音が、図書館の空気を割った。
「私と話すとき、未来のこと、考えるの?」
直球すぎて、喉が詰まった。彼女の声は大きくなかったのに、図書館中に響いた気がした。僕は、机の木目を見て深呼吸する。それから短く笑った。
「考えないようにしてるよ」
「……なんで?」
「君が困るから」
未唯は一瞬きょとんとして、それから眉尻がゆるんだ。驚きと、困惑と、安堵が混ざったような複雑な表情だった。
「そんなの、考えてもいいのに」
「君が“好きが分からない”って言ってたんだよ。そこに僕が勝手に未来を足したら、ただの押しつけじゃん」
未唯は手元の本を指で撫でながら、小さく息をついた。
「……でも、真くんが言うその“未来志向”って、感情が勝手にやることなんでしょ?」
「まあ、そうだね。合理的にコントロールできる領域じゃない。注意の偏りと似てる」
未唯は机に肘をつき、少し身を乗り出してきた。
「だったら、抑えるのも不自然じゃない? 好きって現象の一部なら」
「それはそうだ。でも——」
僕はペンをくるりと回しながら、慎重に言葉を探す。
「でも、僕は“君が嫌がる可能性”を常に計算してる。未来を考えるのは、好きの現象として自然なんだけど……僕は今、それを表に出す自由を持つべきじゃないって思ってる」
「自由……?」
「うん。僕にとっての“未来志向”は、君との距離と関係性のバランスで調整されるものだから」
未唯は、ふと本を閉じ、両手で包むように持った。静かに視線を落としている。
「……変な感じがする」
「何が?」
「真くんは……私を好きなのに、自分の自然な感情を抑えてる。それが私のためっていうのは分かるけど……なんか、私が真くんの“未来”を奪ってるみたいで」
その呟きはかすかで、図書館の空調音に紛れそうだった。
僕は首を振る。
「奪ってないよ。僕の未来は僕のものだよ。ただ——君にぶつけるべきかどうかを選んでるだけ」
「選んでる……?」
「そう。未来は勝手に生まれるけど、誰かに“共有してほしい”って願望は、行為として制御できる。それをあえて抑えてるだけ」
未唯は、しばらく黙って考え込んだ。
「……なんか、それって、優しすぎる気がする」
「優しいんじゃなくて、臆病なんだよ」
「臆病?」
「うん。前みたいに、また君に拒絶されたら嫌だから」
未唯は小さく笑った。笑いながらも、どこか困ったような、戸惑ったような、そんな顔だった。
「……真くんって、不思議だね」
「どの辺が?」
「こんなに合理的に考えてるのに……感情はすごくまっすぐで。未来のことも慎重なのに……ときどき、ものすごく大胆なこと言う」
「ごめん、それ褒めてる?」
「……褒めてるつもり」
未唯は照れたように頬を掻く。それを見ているだけで、胸の奥が温かくなる。
その瞬間だった。
未唯が、小さな声で続けた。
「未来……考えてもいいよ」
僕は顔を上げた。
「え?」
「真くんが勝手に考える分には、いいと思う。押しつけちゃダメだけど……真くんが、私との時間を“続けたい”と思うなら……それは、私の自由を侵害しない」
言葉を選ぶように、一語ずつ落としていく。
「私……まだ好きが分からないし、未来も分からない。でもね、真くんが私のことを考えてくれる時間が……嫌じゃない」
図書館の光が、未唯の頬を淡く照らす。僕の胸の奥で、ひどく静かに、しかし確実に、何かが動いた。
「……ありがとう」
「うん」
未唯は軽く笑って、本を開き直した。でもその指先は、ほんの少し震えていた。
緊張か、照れか、それとも他の感情かは分からない。けれど、その微細な震えは、確かに“未来”への何かの兆しだった。
僕たちの距離は、まだ遠い。
でも、確かに——
未来志向という小さな芽が、机の上の静寂のなかに息づいていた。




