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好きがわからない君へ告白したら、カント倫理学でフラれました。 ――それでも僕たちは、自律から始まる恋を続けていく  作者: 目田 不識(めた・ふしき)
第5章 好きの多義性

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ep. 54 未来志向

 その日、大学の図書館は珍しく混んでいた。試験前というわけでもないのに、人が多い。窓際の席はすべて埋まっていて、僕と未唯は、少し離れた棚の影になった二人掛けの机に並んで座った。妙に静かな空間だった。人が多い分、騒がしさが増すかと思いきや、逆だった。ざわめきが吸音材みたいに広がって、かえって自分たちの仕草が浮き上がる。


 僕はノートを広げながら、ちらりと横を見る。未唯は分厚い『判断力批判』の英訳を開きつつ、付箋を貼ったり外したりしていて、相変わらず落ち着きがない。それなのに、読むときだけは妙に一点に集中する。目が紙に吸い込まれるようなあの姿勢——あれを見るたびに、僕は理由もなく胸がざわつく。


「……真くん、さっきの続きだけど」


 不意に声をかけられて、僕はペンを止めた。未唯はページを押さえたまま、首だけこちらに向けている。額にかかった髪が、図書館の白い光に透けた。


「“未来志向”が、好きに含まれるって言ったよね?」


「うん。まあ、一般的な話だけど」


「それって……どういう意味で? 恋愛、っていう話?」


 未唯の質問には、「感情の定義として何が含まれるべきか」を確認する、真面目な色があった。それでも僕は、少しだけ身構えた。彼女が“恋愛”という単語を口にするのは珍しい。いつも“関係性”とか“傾向性”とか言い換えるからだ。


 その単語を彼女の口から聞くだけで、意味以上の重みが生まれる。


「恋愛に限らないよ。ただ……“好き”が続くと、人って勝手に“未来”を考えるようになる」


 僕はノートに円を描いた。


「行動傾向や価値承認が、短期的な“いま”を中心にしてるのに対して、未来志向ってのは時間軸が伸びるんだ。たとえば——また会いたい、とか」


「……会いたい」


「そう。今日楽しかったから、明日も一緒に帰りたい、とか。話してる時間が心地よかったら、次の約束をつくりたくなる。未来志向ってのは、好きが時間を延長する現象なんだよ」


 僕はできるだけ客観的な表現にとどめた。余計な期待を持たせる気はないし、何より彼女は恋愛について慎重すぎるほど慎重だ。それに、僕自身も彼女に過度な圧力をかけたくない。


「……真くんは」


 未唯が、ページを閉じる音が、図書館の空気を割った。


「私と話すとき、未来のこと、考えるの?」


 直球すぎて、喉が詰まった。彼女の声は大きくなかったのに、図書館中に響いた気がした。僕は、机の木目を見て深呼吸する。それから短く笑った。


「考えないようにしてるよ」


「……なんで?」


「君が困るから」


 未唯は一瞬きょとんとして、それから眉尻がゆるんだ。驚きと、困惑と、安堵が混ざったような複雑な表情だった。


「そんなの、考えてもいいのに」


「君が“好きが分からない”って言ってたんだよ。そこに僕が勝手に未来を足したら、ただの押しつけじゃん」


 未唯は手元の本を指で撫でながら、小さく息をついた。


「……でも、真くんが言うその“未来志向”って、感情が勝手にやることなんでしょ?」


「まあ、そうだね。合理的にコントロールできる領域じゃない。注意の偏りと似てる」


 未唯は机に肘をつき、少し身を乗り出してきた。


「だったら、抑えるのも不自然じゃない? 好きって現象の一部なら」


「それはそうだ。でも——」


 僕はペンをくるりと回しながら、慎重に言葉を探す。


「でも、僕は“君が嫌がる可能性”を常に計算してる。未来を考えるのは、好きの現象として自然なんだけど……僕は今、それを表に出す自由を持つべきじゃないって思ってる」


「自由……?」


「うん。僕にとっての“未来志向”は、君との距離と関係性のバランスで調整されるものだから」


 未唯は、ふと本を閉じ、両手で包むように持った。静かに視線を落としている。


「……変な感じがする」


「何が?」


「真くんは……私を好きなのに、自分の自然な感情を抑えてる。それが私のためっていうのは分かるけど……なんか、私が真くんの“未来”を奪ってるみたいで」


 その呟きはかすかで、図書館の空調音に紛れそうだった。


 僕は首を振る。


「奪ってないよ。僕の未来は僕のものだよ。ただ——君にぶつけるべきかどうかを選んでるだけ」


「選んでる……?」


「そう。未来は勝手に生まれるけど、誰かに“共有してほしい”って願望は、行為として制御できる。それをあえて抑えてるだけ」


 未唯は、しばらく黙って考え込んだ。


「……なんか、それって、優しすぎる気がする」


「優しいんじゃなくて、臆病なんだよ」


「臆病?」


「うん。前みたいに、また君に拒絶されたら嫌だから」


 未唯は小さく笑った。笑いながらも、どこか困ったような、戸惑ったような、そんな顔だった。


「……真くんって、不思議だね」


「どの辺が?」


「こんなに合理的に考えてるのに……感情はすごくまっすぐで。未来のことも慎重なのに……ときどき、ものすごく大胆なこと言う」


「ごめん、それ褒めてる?」


「……褒めてるつもり」


 未唯は照れたように頬を掻く。それを見ているだけで、胸の奥が温かくなる。


 その瞬間だった。


 未唯が、小さな声で続けた。


「未来……考えてもいいよ」


 僕は顔を上げた。


「え?」


「真くんが勝手に考える分には、いいと思う。押しつけちゃダメだけど……真くんが、私との時間を“続けたい”と思うなら……それは、私の自由を侵害しない」


 言葉を選ぶように、一語ずつ落としていく。


「私……まだ好きが分からないし、未来も分からない。でもね、真くんが私のことを考えてくれる時間が……嫌じゃない」


 図書館の光が、未唯の頬を淡く照らす。僕の胸の奥で、ひどく静かに、しかし確実に、何かが動いた。


「……ありがとう」


「うん」


 未唯は軽く笑って、本を開き直した。でもその指先は、ほんの少し震えていた。

 緊張か、照れか、それとも他の感情かは分からない。けれど、その微細な震えは、確かに“未来”への何かの兆しだった。


 僕たちの距離は、まだ遠い。

 でも、確かに——

 未来志向という小さな芽が、机の上の静寂のなかに息づいていた。

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