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好きがわからない君へ告白したら、カント倫理学でフラれました。 ――それでも僕たちは、自律から始まる恋を続けていく  作者: 目田 不識(めた・ふしき)
第5章 好きの多義性

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ep. 53 利他的配慮

 人が誰かを「好き」になるとき、そこにはしばしば説明のつかない“利他的な衝動”が混ざり込む。自分の損得勘定とは関係なく、相手のためにしたい。相手の苦しみを軽くしたい。相手の幸福が自分の幸福のように思える――そういう不思議な感覚だ。


 けれど、それは真にとっては自明でも、未唯にとってはまだ定義の外側にある領域だった。


 その日の図書館は、午後の講義を終えた学生たちが流れ込んでいたせいか、人数がいつもより多かった。真と未唯は、少し離れたテーブルに向かい合って座り、互いにノートを開いていた。机には哲学辞典とカントの文庫版、そして真の消しゴムの削りカス。


「ねえ、真くん」


 ペンを止めた未唯が、ふと真を見た。声がいつもより少し柔らかい。


「“好き”って、他人のために行動したくなる感じも含んでるの?」


「まあ、俺にとってはそうかな。好きって、利他的な気持ちが勝手に湧いてくるところがある。未唯を――いや、誰かを大事にしたいとか」


「真くんは、わたしのために何かしたいって思ったりするの?」


 突然の直球に、真は言葉を失った。手の中のボールペンがカチリと音を立てる。


「……そりゃ、思うよ。むしろ、そればっかりだよ」


 未唯は少しだけ目を伏せる。だが否定はしなかった。


「わたし、自分が誰かのために何かしてあげたいって、あんまり……ないんだよね」


「それは悪いことじゃないよ」


「でも、真くんの“好き”の説明を聞くと、利他的な気持ちがすごく中心にあるように聞こえるの。わたしには、それがない。だから“好き”がわからないのかなって」


 その言葉は、未唯の胸の奥でずっとまとわりついていた不安の輪郭を、ようやく言語化した瞬間だった。

 真は手を止め、ゆっくりと未唯の顔を見つめる。


「未唯は、どういうときに誰かに優しくしたいって思う?」


「……困ってるときとか」


「それだって立派な利他的配慮だよ」


「でも、それは“好きだから”じゃなくて、“困っているから”でしょ。理由が違う」


 未唯の眉がかすかに寄った。

 そう、彼女は感情と理由の境界を曖昧にしたままにするのを嫌う。それが未唯の“誠実さ”なのだ。


「じゃあさ」と真が言う。「例えば、未唯が風邪ひいたら、俺は多分、差し入れとか作ると思う」


「……真くん、料理できるの?」


「そこはつっこまないでほしいけど。まあ何かしら出来る範囲でできることをすると思う」


「それは……わたしが好きだから?」


「うん。好きだから、っていうより、好きな相手の苦しみを取り除きたいっていう感じかな。利他的な気持ち」


 未唯は自分の胸の内側を探るような仕草をした。

 視線が宙を泳ぐ。感情の奥に小さなかすり傷のようなものが見え、それを確かめようとしているようだった。


「……その感覚、わたしにはないかもしれない」


「今は、でしょ」


「?」


「好きって、最初から全部そろってるものじゃないよ。昨日まで持ってなかった部分が、今日突然生まれたりもする。利他的な気持ちもそういうもんだと思う」


 未唯は黙り込んだ。

 でもその沈黙には、拒絶の気配はなかった。

 ただ、理解しようとするための静けさだけがあった。


「利他的ってね」と真は言葉を足す。「相手の価値を認めたうえで、『その価値が続いてほしい』って願う気持ちに近いんだ。相手がよりよく生きられるようにしたいって」


 その瞬間、未唯の目がかすかに揺れた。


 まるで、自分でも気づかなかった透明な感情が、水面の下で波紋を広げ始めたように。


「……それって、価値承認の一部なの?」


「そう。好きの核の一部だよ。価値を認めるからこそ、その価値が輝き続けてほしいって思うんだ。利他的な気持ちは、“価値承認の行動版”って感じ」


「なるほど……」


 未唯はペンを取り、ノートの片隅に小さくこう書いた。

 “価値承認 → 維持したい → 利他的”


 それを見た真は少し笑った。


「整理上手になってきたじゃん」


「……真くんの説明が、わかりやすいから」


 不意にくるそういう一言が、真の胸をやけに強く揺らす。


 利他的配慮とは、たぶんこういう瞬間のことだ。

 相手の幸福が、理由もなく自分の幸福に響いてしまう瞬間。


「未唯も、そのうち出てくるよ。利他的な気持ち」


「……出てくるのかな、ほんとうに」


「出るよ。たぶん、俺がうっとうしいくらい言い続けるから」


 未唯は小さく息を吐き、わずかに口角を上げた。

 笑ったのかもしれない。笑いかけただけかもしれない。

 真にはもう判別がつかないくらい、微細な表情だった。


 けれど、その一瞬――

 未唯の胸の奥に、確かに“何か”の芽のようなものが生まれていた。


 利他的配慮は、感情ではなく行動の傾向。

 未唯はそれを、まだ自分の内部に見いだせないままでいたが、

 その兆しは、すでに静かに育ち始めていた。

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