ep. 52 行動傾向としての“好き”
真は、レポートに向かうふりをしながら、指先でノートの縁をたたいていた。
図書館の一角。落ち着いた照明の下、未唯はいつも通り静かに本を読んでいる。膝には『実践理性批判』、机にはシャープペンと付箋が並べられている。そこまでは、いつも通りの景色だった。
けれど、今日の真の身体は、いつもと違った。
落ち着かない。手が勝手に動くし、視線はページの文字に定着しない。
気が付くと、何度も未唯の方を見てしまう――見てしまうというより、見に行ってしまう。
「……なぁ、未唯」
真が声を出した瞬間、未唯はページの途中で視線を止めた。
「ん、なに?」
「いや……なんでもない」
未唯は小さく瞬きをして、また活字に戻る。
だが真の胸はざわついたままだ。言いたいことがあるのに言語化できず、言ってはいけないような気もして、思考がうまくまとまらない。
「……真くん、落ち着いてないね」
「わかる?」
「まぁ、見てれば」
未唯が本を閉じ、こちらを見る。その視線だけで、胸の上に透明な重みがのしかかるようだった。その重みは不快ではない。むしろ、喉の奥が甘い痛みで満たされるような――あの、告白した日と同じ種類の感覚だった。
真は思いきって言う。
「……最近さ、気づいたことがあって」
「なに?」
「俺、未唯が図書館にいるだけで、ここに来るようになってるんだよ。……気づいたら探してる」
未唯は数秒、真の言葉をじっと聞いた後、そっと目を伏せた。
逃げではなく、考えるための沈黙だった。
「それって……行動の傾向、ってこと?」
「そう。俺は“好き”を快とか価値とかで説明しようとしてきたけど……多分、行動が勝手に動くって部分も、大きいんじゃないかと思った」
未唯はペンを指で転がしながら、静かに息を吸い、言葉を選んだ。
「……うん。そうだね。私もそれは思ってた」
「本当?」
「うん。私ね、真くんが近くに来ると、ページをめくるスピードが少し遅くなるんだよ。集中しようとしてるのに、集中がちょっとずれるの。これって……たぶん、私の行動の傾向でもある」
真は思わず固まる。
未唯がそんなことを言うのは珍しい。
むしろ、はじめてだった。
「……未唯、それ、つまり――」
「うん。でも誤解しないで。これは“好き”じゃなくて、“気になってる”ってレベルのこと。行動として偏ってしまうだけで、感情が伴ってるかはまだわからない」
未唯はそう言いながらも、目は真から逸らさなかった。
逃げるように言うでもなく、言い切って関係を断つわけでもない。
ただ、今自分の中を正確に言語化するための距離を保っている、そんな声音だった。
真はゆっくり頷く。
「わかってる。俺も“勝手に行動しちゃう”っていうのは、好きそのものじゃない。ただ、その……行動って、嘘がつけないんだよ」
「嘘がつけない……?」
「頭で“会わない方がいい”って思ってても、足が図書館に向かう。未唯のことを議論したいって気持ちもあるけど、それ以上に“未唯の姿を見たい”って衝動が動く。これって、理屈じゃ止められないだろ?」
「……うん。行動って誤魔化せないね」
未唯は机に置いた手で、自分の指の関節をなぞる。
そしてゆっくり顔を上げた。
「でもね、真くん。行動の傾向って、必ずしも良いことばかりじゃないんだよ」
「どういう意味?」
「たとえば……依存だったり、逃避だったり。“行きやすい方向に流れる”のも行動の傾向だから。そこに快があっても、価値がなくても、私たちは流されることがある」
未唯の言葉は、細く鋭く、しかし優しい刃物のように真の胸に触れた。
「……じゃあ俺の行動は、ただ流されてるだけの可能性があるってこと?」
「それも否定できないと思う。でも、それが全部じゃないでしょ?」
未唯のまっすぐな目に見つめられると、真の喉がまた熱くなる。
逃げたいけれど逃げられない。見つめ返すしかない。
「俺は……流されてるんじゃなくて、選んでると思いたい。いや、違うな。最初は流されてたのかもしれない。でも今は……自分で来てる。未唯と話したいって思って来てるんだ」
未唯は少しだけ目を細めた。
その変化は、わずかな温度をもって真に触れた。
「じゃあ、こう考えればいいんじゃない?」
未唯は静かに続ける。
「行動の傾向は、“好き”の証拠じゃなくて、好きに近づくための現象だって」
「現象?」
「うん。行動が勝手に動くとき、その裏に快があったり、価値があったりする可能性がある。でもそれは推測であって、確証じゃない。だから……その行動をどう捉えるかは、自分で選ぶ必要がある」
真は少し息を吸って言う。
「じゃあ……俺の“ここに来る行動”は、好きの可能性があるってことだよな?」
「それは否定しないよ。でもね――」
未唯は軽く指を振った。
「“行動が先にある好き”と、“義務の結果として生まれる好き”は全く違うから」
「あ……」
その言葉は、第二部への大きな伏線となる“あの議論”を予兆していた。
真の胸の奥がかすかに震える。
まだ理解には至っていないが、何か大きな枠組みが動き始めた感触だけはあった。
未唯は背筋を伸ばし、ペンを持ち直した。
「今日はね、真の行動がどうして起きているのか、私なりにちゃんと見てみるつもりで話してた。……たぶん真くんは、自分の心より先に体が動いてるタイプなんだと思う」
「そ、それ褒めてる?」
「わかんない。でも……ちょっと羨ましいとは思うよ。私は行動が遅いから」
その一言は、未唯の中にある微細な“羨望”の萌芽を、ほんの少しだけ覗かせていた。
真は深く息を吸った。
そして、ゆっくり吐いた。
「……未唯。ありがとう」
未唯は小さく首を傾げたが、その頬の端は、いつもの無表情よりほんの少しだけ柔らかかった。




