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好きがわからない君へ告白したら、カント倫理学でフラれました。 ――それでも僕たちは、自律から始まる恋を続けていく  作者: 目田 不識(めた・ふしき)
第5章 好きの多義性

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ep. 51 性的欲望

 性の問題を、真はできるだけ避けてきた。というより、未唯の前でその話題を出すこと自体が、何かひどく乱暴なことのように思えて、ずっとためらっていた。未唯もまた、そうした話題を喜んで口にするタイプではない。二人の間には、学問の話題が尽きることはないのに、どうしても踏み込めない領域があった。その沈黙の正体が、ついにこの日、真の胸の奥で形を取った。


 授業帰り、哲学研究室の外階段に腰かけて、二人は缶コーヒーのプルタブをほぼ同時に開けた。秋風が強く、夕陽がガラス窓に反射して眩しい。真はコーヒーの熱で指先を温めながら、意を決したように息を吐いた。


「なあ、未唯。今日ちょっと話したいことがある」


「……怖い言い方しないでよ。何?」


「いや、その……好き、の話なんだけど。もう少し正確に言うと、“好きの中にある身体的な側面”っていうか」


 未唯が一瞬だけ目を見開いた。驚いたというより「来たか」という諦めのようにも見えた。彼女はカップの縁を指でなぞりながら、小さく頷く。


「うん。避けてたよね、私たち」


「避けてた。けど、避けたままだと定義が進まない気がしてさ」


 未唯はコーヒーをゆっくり飲んだあと、小声で言った。


「……性的欲望、のこと?」


 真は頷いた。頷くしかなかった。


 沈黙が降りる。でもその沈黙は、気まずいものではなかった。むしろ、初めて互いの距離を測り直そうとする、慎重な静けさだった。


「真くんはさ、性的欲望って、好きに含まれると思う?」


「……含まれる。完全に。少なくとも俺の中では」


 この正直な答えを聞いて、未唯はどこか安心したように息を吐いた。


「そっか。私は……含まれるかどうか、よく分からない」


「分からない?」


「うん。私、自分にそういう欲望があるのか、あんまり確信がないから」


 彼女ははにかむように笑う。その表情は、普段の理知的な雰囲気と違って、少し幼い影を落としていた。


 真は心臓を押さえたくなる気分だった。未唯のこういう脆さに触れると、自分の感情が、定義以前のところで動いてしまう。


 しかし真は、今回は誤魔化さなかった。研究としての議論でもなく、恋愛の駆け引きでもなく、ただ真直ぐに。


「身体の反応とか、欲望とか、そういうものが“好き”の中にあるのは、俺にとっては当たり前なんだ。かわいいと思ったり、触れたいと思ったりするのは、感情の一部だから。でも……」


「でも?」


「それを口にしたら、未唯を困らせるかもしれないって思って……ずっと言えなかった」


 未唯は何も言わず、息だけで笑った。


「優しいね、真くんは」


「優しいとかじゃなくて……言ったら嫌われるんじゃないかって思ってた」


「嫌わないよ。むしろ言ってくれたほうが嬉しい」


 真は思わず未唯を見た。未唯は照れたようにうつむき、指先で自分の髪を触っている。


「だって私、あなたと話すときだけ、自分の“わからなさ”が、ちょっとだけ形になるんだよ」


 その言葉は真にとって、胸の奥を刺すような、しかしどこか救われる響きを持っていた。


 未唯は話を続けた。


「性的欲望ってね、たぶん私にとっては“未知”なの。今まで、自分の身体が誰かに向かって反応したことがあるのかって言われると……よくわからない。見た目が整ってる人を“きれい”とか“かっこいい”って思うことはあるよ。でも、それが欲望につながるかっていうと……」


「違う?」


「うん。違う感じがする。魅力は感じる。でも触れたいとか、触れられたいとか、そこまで行かない。だから、好きの構造の中で性的欲望がどこに位置づくのか、まだはっきりしないの」


「なるほど……」


 真は、未唯が丁寧に言葉を探している姿を見つめた。未唯のこういう時間の使い方は、真の性質とは違っている。真は思考が速く、線を引くのも速い。だが未唯は、線を引く前に必ず色を見分け、影を拾い、心の触感を確かめようとする。


 真がゆっくり言葉を探す。


「俺にとっては、性的欲望って……相手の価値承認の一部なんだよ」


「価値承認?」


「そう。相手を美しいと思うとか、魅力を感じるとか……それって、単なる身体的反応じゃなくて、相手が“自分にとって価値のある存在だ”っていうサインなんじゃないかって」


「うん……わかる気がする」


 未唯は頷く。その頷きは、理解の頷きというより、理解に向かって歩き出そうとする頷きだった。


「でもね、真くん。私、その価値承認が“感情”なのか“判断”なのか、まだ分からないんだ」


「判断……?」


「たとえば、真のことを尊敬してる、っていうのは判断だよね。真の態度、考え方、議論の姿勢、そういうのを見て“この人は価値がある”って判断してる。でも、それが好きにつながるのかって言われると……感情としては、まだ……」


 未唯は言いながら困ったように眉を寄せた。真はポケットに手を入れ、夕日の中で彼女の横顔を静かに見つめる。


「好きって、判断じゃないの?」


「判断もあると思う。でも判断だけじゃないと思う。だって、判断って普遍性のある基準でしょ? でも好きってもっと……個別的な感じがする」


「それは分かる。合理的に選ぶわけじゃないもんな」


「うん。だから性的欲望も、合理的じゃない。だから、私には位置づけが難しいの」


 真はしばらく黙り、風に吹かれる髪を耳にかける。


「……未唯はさ、俺のことを魅力的だと思う?」


 未唯はびくっと肩を震わせ、頬を赤くした。


「そ……そりゃあ、魅力は……あるとは思うけど……」


「どんな魅力?」


「どんなって……そういうの、急に聞く?」


「聞きたいんだよ。未唯の“価値承認”を」


 未唯は顔を伏せ、恥ずかしそうに視線を揺らす。


「……真くんはね、人を大事にする。議論するときも相手を尊重するし、私が言葉を探してるときも待ってくれる。それって、すごく価値があると思う。あと……考え方がまっすぐで、ちょっと頑固だけど、それはそれで魅力だと思う」


「それって……判断?」


「判断。でも……それを言ってるとき、ちょっと胸が温かくなるから……感情でもあるのかもしれない」


 未唯はそこで言葉を止めた。


 真は静かに笑った。夕陽の中で、未唯の輪郭が柔らかく揺れている。


「……それ、すごく嬉しいよ」


「うん……私も、言ってみてちょっとびっくりした」


「何に?」


「真くんのことを語るときだけ、感情が勝手に動くことに」


 その告白は、真にとって胸を貫く矢のようだった。痛みと喜びが同時に胸を締めつける。


 未唯は続きを言う。


「でも。それでも性的欲望が“好きの本質”かはまだわからない。私にとっては、おそらく“副次的なもの”なんだと思う。まず価値があって、それが感情に変わって……そのずっと後ろに、身体的な反応が来る気がする」


「順序の問題か」


「うん。真くんとは逆の順序なのかもしれない」


 風が吹き、木の葉が舞う。


 二人の“好き”は、同じ名前を持ちながら、その構造は違っていた。

 だが違うからこそ、こうして語る意味があった。


 未唯は最後に、真の方をまっすぐ見た。


「……性的欲望を、真が“好き”の中に含めるのは理解できるよ。でも私は、好きの主成分はもっと別のところにある。価値と、判断と、感情の重なり……その一番奥に、ほんのわずかに身体が反応する。そんな順番なんだと思う」


 真は頷く。


「構造が違うんだな、俺たち」


「うん。でもそれを知れたのは大きいよ。これでまた“好き”の定義が広がった」


 夕暮れが深まり、二人の影が並んで伸びる。


 性的欲望――それは真にとっては価値承認の即時的なサインであり、未唯にとっては遠い場所にある微かな反応。


 その違いが、二人を隔てるのではなく、むしろ結びつけていく。


 そう思えたのは、真にとって、不思議なほど自然だった。

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