ep. 50 好きの構造が鮮明になる
研究棟のガラス窓に夜が映り込むころ、ふたりはようやく同じテーブルに戻った。
議論で席を立ったわけではない。ただ、あまりに話が複雑になりすぎて、互いに何度か廊下へ出たり、飲み物を取りに行ったりしていたせいだ。話すたびに世界が揺れ、戻るたびに何かが確かになる。そんな奇妙な往復を繰り返していた。
真は椅子に腰を下ろし、深く息を吐いた。
「つまりさ、偏りって……理由がわかるわけじゃない。でも、確実に起きてる“現象”なんだよな。
俺は他の誰より、おまえの声とか、表情とか、言葉に反応する。その事実だけは否定できない。原因がどうでも」
未唯も隣の席に座り直す。少し身体を曲げて机に肘をつき、真の方を見た。
「うん。でもそれは“好意の証明”にはならない気がするんだよ。
だって、注意の偏りは……もっと原始的なレベルでも起きるんじゃないかな」
「原始的?」
「うん。たとえば、危ない音に耳が向くとか、目立つ色に視線が寄るとか。
それって好きとか嫌いじゃなくて、“気づいちゃう”だけ。
恋もそれと似てるのかもしれないよ」
真は笑ってしまった。
「なるほど。俺が危険信号みたいなものってことか?」
「そういう意味じゃないよ!」
未唯は頬を少し赤くして手を振った。
「ただ……たぶん、偏りを“特別な意味”として受け取るのは、真くんの側の判断なんじゃないかって言いたくて」
「判断……ね」
「うん。だって、注意が偏るだけなら誰にだって起きるんだよ。
でも、そこに“価値”を与えるのは、その人自身の判断。
真くんは……私に偏った注意を、“好き”という概念につないでる」
未唯は机の上で指を組みながら言葉を続けた。
「でも私は、まだそこまで判断が進んでない。
偏られるのはわかる。視線を向けられてるのもわかる。でも、それが“好き”という現象にどうつながるのか……まだ、うまく理解できてない」
真はゆっくりうなずく。
未唯の言葉は、彼にとって痛みを含んだ現実だったが、それでも耳をそらせなかった。
「じゃあさ――」と真は前のめりになる。
「偏りだけじゃ好きじゃない。
でも、偏りが“好き”の構造のどこかに関わってるのは、間違いないよな?」
未唯は少し考えたあと、小さくうなずいた。
「うん……たぶんね。
“好き”っていう大きな現象を分解したとき、その一部分として“注意の偏り”があるんだと思う。
でもそれは核じゃなくて、周縁的なもの。
価値判断や快の発生、態度や行為の傾向……そういうもっと大きな流れの中で、偏りは補助線みたいに働く感じ」
「補助線か。わかりやすいかも」
「真くんは私に関心が偏ってる。それは誤解じゃない。
でもそのことと、“私を好きだ”っていう判断は、別のステップなんだよ」
真はその言葉を胸の中でゆっくり転がした。
確かに、注意の偏りが感情そのものではない。
ただ、偏りを“価値があるもの”と判断した瞬間に、感情は意味を持ち始める。
未唯の静かな横顔は、どこかで理解し始めた者のそれだった。
「もしかすると……」と未唯がつぶやく。
「真くんの偏りを見てると、“私という対象が特別だ”って判断してるように見えるんだ。
そして、その判断がまた感情を育てる。
偏り→判断→感情……みたいに循環してる気がするの」
「循環……?」
「うん。
注意が偏る → 相手に価値を感じる → 気にする → もっと注意が向く。
こうやって強化されていく循環。
だから、偏りはきっかけであり、結果でもある」
真は目を見開いた。
その説明は、彼自身が言語化できずにもどかしかった感覚を鮮やかに描き出していた。
「……それだ。俺の状態、まさにそれだよ」
「偏りは現象で、価値判断は俺の側の選択……か」
未唯はゆっくりと真を見た。その瞳はやわらかかった。
「真くんの好きがどう構築されてるのか……少し、わかった気がする」
「俺も……ようやく整理できたと思う。
偏りは特別じゃない。でも、特別にするのは俺の判断なんだな」
未唯は小さく笑う。
その笑みは、今までよりもほんの少しだけ真に近かった。
「うん。
その判断の仕方が、その人の“価値観”なんだと思う」
真は胸の奥に、これまでとは違う種類の明るさを感じていた。
偏りが恋の証明ではなくても、ふたりの議論は確かに前へ進んでいた。
そして――好きの構造が、また一段階、鮮明になった。




