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好きがわからない君へ告白したら、カント倫理学でフラれました。 ――それでも僕たちは、自律から始まる恋を続けていく  作者: 目田 不識(めた・ふしき)
第0章 告白と拒絶:原初的非対称

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ep. 5 感情と理性のねじれた夜

 図書館を出ると、キャンパスの空気はすでに夜の冷えを帯びていた。建物に囲まれた空間に、晩秋特有の乾いた風がすべり込んでくる。昼間の喧騒は跡形もなく、歩く学生の姿も数えるほどしかない。その静謐は、まるで二人だけを世界から浮き上がらせるために用意された舞台のようだった。


「帰ろうか」


 真がそう言うと、未唯は「うん」とだけ頷いた。

 しかしその「うん」には、先ほどまでのぎこちない硬さとは違う、どこか柔らかさのようなものがあった。


 門へ続く坂道を並んで歩く。街灯の光が二人の影を伸ばし、細長い影同士が何度も触れ合っては離れる。会話は少なかったが、沈黙の質は少し前と違った。拒絶の余韻に満ちたものではなく、「まだ言葉になっていない思考の時間」に似ていた。


 真は胸の中で何度も言葉を組み立てた。

 言うべきか、言わないべきか。

 感情と哲学が同時に言葉を奪い合う。


「未唯は……」


 耐えきれず、それは自然に口をついて出た。


「“好き”って、どうしてそんなに怖いの?」


 未唯はしばらく考えるように視線を落とした。夜気に白く混じる息が、小さな雲のようにふわりと漏れる。


「……好きって、相手の中に入らなきゃいけない気がするんだよね」


「入る?」


「うん。相手の期待とか、感情とか、世界とか。そこに自分が入らなきゃいけない。

 でも、わたし……自分の“形”がまだできてないから。入ったら、壊れそうで怖い」


 その言葉は、真の胸に深く刺さった。

 柔らかく、正直で、どこか痛々しい。


「自分の形……」


「広曽木くんは、自分がどういう人間か分かってるでしょ。

 でも、わたしは違う。自分が感情にどう反応するのかすら、ちゃんと分からない。

 “好き”って言われても……それをどこに置いたらいいのか分からないの」


 真は息を飲んだ。

 その瞬間、未唯の「好きが分からない」がただの拒絶ではなく、生存戦略としての感情の封印であることが、ようやく腑に落ちた。


「じゃあさ」

 真は少しだけ笑みを浮かべて言った。

「“好きの置き場所”を一緒に探したらいい」


 未唯は驚いたように顔を上げる。


「……そんな簡単に言わないでよ」


「簡単じゃないから言ってるんだよ」


「……どういう意味?」


「俺も、自分の気持ちの置き場所なんて、分かってないから」


 未唯の目が少しだけ丸くなった。

 真は歩きながら続けた。


「理屈では整理できるのに、感情になると、どこへ向かえばいいのか分からなくなる。

 でも、未唯と話してると……“分かりたい”って思えるんだ」


 その言葉は、真にとっては偽りなく、むしろ自分でも驚くほど自然だった。

 未唯と話す時間は、いつも心が不必要にざわつき、そして不思議なほど落ち着く。

 矛盾しているのに、矛盾のままで居場所がある。


「わたしは……」

 未唯は言いづらそうに唇を噛んだ。

「わたしは、“好き”って言葉を使うと……後戻りできなくなる気がするの。

 それがこわいの」


「後戻り?」


「うん。言葉ってさ、道を選ぶみたいじゃない?」


「確かに」


「“好き”って道を選んだら、その先に進まなきゃいけない。

 でも、わたしはまだ……歩く足場がない」


 真は立ち止まった。

 夜の空気が二人の間に張りつく。


「未唯」


「なに?」


「一緒に……歩く足場、作っていかない?」


 未唯は息を呑んだ。

 その声音には、真の中にしっかりとした“決意”が滲んでいた。


 だが未唯は首を横に振った。


「広曽木くん……」


「うん」


「告白の返事は、まだできない。

 それは……伝えておきたい」


「分かってるよ」


 真は笑った。それは強がりではなく、どこか静かな受容の笑みだった。


「返事はいらないよ。

 未唯が分からないなら……分からないままでいい。

 それでも俺は、未唯と話がしたい」


 その言葉に、未唯の瞳がわずかに揺れた。


「……なんで、そんなに優しいの?」


「優しくなんかないよ」

 真は即答した。

「俺は未唯のことが“気になってる”。ただ、それだけ」


「気になってる、か……」


 未唯はゆっくりとその言葉を味わうように呟いた。


 坂を下った先で、二人は別の方向へ分かれる地点に立った。

 街灯に照らされた交差点で、未唯が言う。


「広曽木くん」


「ん?」


「わたし……“好き”と“義務”のこと、本当に分からないまま来てる。

 でも……考えたい。

 一緒に、考えてもらっていい?」


 真は深く頷いた。


「もちろん」


 未唯は小さく笑った。


「じゃあ……また明日、図書館で」


 未唯が去っていく背中を見送りながら、真の胸には奇妙な感情が混ざり合っていた。


 ──恋は成立していない。

 ──でも関係は始まってしまった。


 理性では説明できない、“未唯という現象への関心の偏り”が、静かに彼の心の奥で脈打っていた。


 この夜、二人の間に横たわっていたのは

 愛でもなく、友情でもなく、

 ただ「解けない問いを共有する」という、

 きわめて哲学的で、しかしどこか残酷な絆だった。


 そして真はまだ知らない。

 この夜を境に、自分の倫理観も、恋の定義も、

 そして“義務”という言葉の意味すら──

 静かに書き換わり続けていくことを。

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