ep. 49 二つの理解のすれ違い
その夜、真はアパートの机に向かい、ノートを大きく広げていた。無数の矢印と線が交差し、どこか神経回路のようになっている。彼が一度集中すると、文字は勝手に紙の上へと増殖していく。そのエネルギーは学者の卵というより、もはや「分析という行為そのものに取り憑かれた人間」に近かった。
「うーん……“注意の偏り”の因果って……こう……?」
真は、今日の議論をもう一度ゼロから再構成していた。
未唯の言葉──「現象として起こるだけ」という一言が、妙に引っかかる。
彼にとって、説明できない現象は“負け”だった。
なぜ自分の視線が未唯に向くのか、その因果を一つひとつ特定すること。それが“誠実さ”だとすら感じていた。
「視線の配分……注意資源の独占……情動の刺激……」
独り言が止まらない。
だが、それらの線をいくらつないでも、彼の視線が未唯に向く“決定的理由”だけは、どうしても特定できなかった。
そこで、ふと脳裏に未唯の表情が映る。
今日、はにかむように笑った、ほんの一瞬の横顔。
(やっぱり……あれだけは説明つかないんだよな)
未唯の笑顔は、真の中で“因果”を裏切る存在になりつつあった。
──一方そのころ。
未唯は、自室のベッドに腰掛けながら、今日の会話を思い返していた。
手のひらには買ったばかりの小さなメモパッド。
そこには、震える字でこう書き込まれている。
「“注意の偏りは、好きと関係あるのかな”」
言葉にしてみると、途端に自信がなくなる。
彼女にとって、感情も注意も、どちらも曖昧な霧のようなものだ。
真のように分析できないし、理由を一つずつ検証することもできない。
「……なんで、真くんは……そんなに、私を見るんだろう」
呟く声が、少し掠れていた。
問いというより、戸惑いに近い。
未唯にとって、誰かから向けられる注意は“負担”だった。
子どものころから、母親の苦労を見ながら生きてきた。
自分が誰かの視線を受けると、それが期待につながる。その期待に応えられない自分が責められる気がした。
だから、真の視線の強さは、嬉しさと同時に、恐怖でもあった。
「……わからないよ。なんで、そんなに……」
胸の奥がきゅっと縮む。
しかし、嫌悪ではなかった。むしろ──
(……気づいていた。真くんの視線は……痛くなかった)
それに気づいた瞬間、未唯はそっとペンを置いた。
感情というものがわからない彼女にとって、この微細な体験は、ほとんど「事件」に近い。
──そして翌日。
大学の中庭で向き合った二人は、いつものように自然と議論を始めた。
しかし、その言葉の裏には、互いの“すれ違い”が静かに積み重なっていく。
「昨日の続きだけどさ。これ──注意資源の分配モデル作ってみた」
真は誇らしそうにノートを広げる。
未唯はしばらく沈黙し、やっと口を開いた。
「……真くんは、本当に……因果が、欲しいんだね」
「うん。当たり前だろ。だって、理由がなきゃ……」
未唯は真の言葉にかぶせるように続けた。
「私は……理由が“ない”ってことも……あると思うの」
真は一瞬、呼吸を忘れたように固まる。
「理由がない?……そんなの、ただの放棄だよ」
未唯のまぶたがわずかに揺れた。
「放棄……じゃないよ。
“わからないことを、そのままにする”っていう……態度も……あると思うの」
「でも、それじゃあ……理解できないじゃないか」
「……うん。理解できないよ。でもね……」
未唯は小さく深呼吸をし、言葉の選び方を慎重に整える。
「真くんが……私へ向ける視線。
あれは……“理由がある”って感じじゃないんだよ」
その言葉に、真は息を飲んだ。
「どういう……意味?」
「うまく言えない……けど……
私には、“結果としてそうなってる”って……そう感じるの」
真の眉が困惑の形に歪む。
「現象として……起こるだけ、ってこと?」
「うん……。
真くんが私を見るのは……“そうなってしまう”からで……
その理由を一つに決めるのは……たぶん……違う気がするの」
真は黙ってしまう。
彼の中で、世界は因果律で成り立っている。
何かが起これば、必ず理由がある。
だから“結果だけがある”という考え方は、彼にとって世界の崩壊に近い。
「……それじゃ、俺の気持ちも、ただの現象だって言うの?」
未唯は俯きながら、ゆっくり首を横に振る。
「違うよ……。
“現象だから、美しい”んだよ、きっと」
その一言は、真の中の何かを静かに叩いた。
理性では理解できないが、胸の奥だけが反応する。
理解と感覚が初めて分裂する瞬間だった。
だが互いの世界は、まだ交わらない。
すれ違いは終わらず、むしろ深まっていく。
真は“理解できないこと”が苦しい。
未唯は“理解しすぎようとする視線”が苦しい。
二つの苦しさが、そっと並ぶ。
寄り添いはしないが、確かに気配だけは触れ合っていた。
──そして、好きの構造へと至る最後の扉が、すぐ先に見え始めていた。




