ep. 48 未唯の説明(感覚的理解)
未唯はしばらく黙っていた。真の言葉を拒んだわけではない。ただ、どこから話せばいいのか、どの言葉を使えばいいのかがわからず、慎重に息を整えているだけだった。
四月のキャンパスの風はまだ肌寒い。講義棟と図書館の間にある細い通路は人が少なく、ふたりの会話はその空気の中に静かに沈んでいった。
「……ねぇ、真くん」
未唯がようやく口を開いた。
真は手に持っていたプリントを無意識に折り曲げるのをやめて、彼女の声へ集中した。
「さっき、“関心がそっちに引き寄せられる”って話、してたよね」
「ああ。注意が偏るってこと」
「うん。それ、私は……もうちょっと違う感じで受け取っているんだと思う」
そこまで言うと、未唯は視線をゆっくりと上げた。どこか遠くを眺めるでもなく、しかし真の目を真正面からは見ない。感情をそのまま言語化するのが苦手な彼女に特有の、慎重で不器用なまなざしだった。
「私にとってはね……“奪われる”って言葉が一番近い気がするの」
「奪われる?」
真が繰り返した瞬間、未唯は軽くうなずく。
「そう。注意が向く、じゃなくて……奪われる。自分が向けようとしてるんじゃなくて、気づいたら持っていかれてる感じ。勝手に、心の余白が埋められていくというか」
その言い方は、真の合理的説明とはまるで違っていた。
真の説明は「注意の選択性」「情動と刺激の関連」など、心理学の知識を整理した、因果の筋道を通した解釈だった。
しかし未唯のそれは、もっと直接的で、経験そのものに近い。
「私は……自分の感情を整理して結論にするの、すごく苦手なんだよね。だから、誰かを“見たい”とか“気になる”とか、そういう意図を持って向けるんじゃなくて……」
未唯は唇を噛んだ。
数秒の沈黙が落ち、その沈黙の中に、彼女の言葉の選び方の慎重さがにじんでいる。
「……勝手に、そっちにひっぱられてしまうんだよ」
真は静かに息を呑む。
彼女が“誰か”と明言しなかったことに意味を感じつつも、そこを指摘することはしなかった。
「それって、どういう……感覚なの?」
真が問いかけると、未唯は少しだけ笑った。困ったような、でも優しい笑い方だった。
「説明できたら、苦労してないよ……。でもね、例えるなら……」
ひと呼吸置いて、未唯は続けた。
「図書館で本を読んでるときでも、講義中でも、家で洗い物してても……突然、小さな音みたいなものがして、それが心の方へ向かってくる。気配って言えばいいのかな。誰かの存在を思い出す音」
その説明は抽象的だったが、真にはなぜか生々しく伝わった。
“誰か”が自分である可能性を真は思い浮かべたが、それを表情に出すわけにはいかなかった。未唯がまだそこを確かめられていないことは、言わずとも分かっていたからだ。
「こっちが望んでるわけじゃないの。でも、ふっと来るんだよね。そうすると、自分が本当に向けたいはずの関心が曖昧になって……あれ? ってなるの」
「……なるほど」
真は納得したというよりも、その異質な説明に深く聞き入っていた。
彼自身の“偏り”はもっと単純だった。
“好きだから見てしまう”“気になるから目が向く”。
つまり動機がはっきりしている。しかし未唯の説明には、そうした直線的な因果はない。
「私、ずっと自分が判断できていないだけだと思ってたの」
「判断?」
「うん。だって……価値判断ができないと、関心も偏らないはずじゃない? 自分にとって大事かどうか決められないから、心が迷っているんだって」
未唯は手のひらをぎゅっと握る。
「でも違った。私が迷っているんじゃなくて、勝手に偏っていってしまうんだよ。私の意思とは別に。気づいたら、視線とか、意識の流れとか……それがある方向に吸い込まれていくの」
「その“ある方向”って……」
真は最後まで言えなかった。
未唯は、聞かれていることを理解したらしい。
しかし答えず、代わりに静かに微笑んだ。
その微笑みは、否定でも肯定でもない。ただ、まだ言葉にしたくないものを抱えている時の表情だった。
「でもね、真くんの言う“注意が偏る”って説明を聞いて……あ、これってもしかして特別な反応じゃないのかも、って思ったよ」
「特別じゃない?」
「うん。たぶん、それは“好き”とか“価値”とか、そういうものより前にある現象なんだと思う。判断よりも先に来る……もっと根っこの部分」
真の胸に、小さな衝撃が走った。
判断より先に来る現象。
それはまさに、彼自身が理屈では捉えきれなかった“恋の前触れ”のようなものだった。
「真くんがわかりやすく理屈で言う“偏り”と、私の“奪われる”って感覚……どっちも、同じ現象の別の側面なんじゃないかな」
「……同じ現象、か」
「うん。私にはまだ、それが誰に向かってるのか、断言できないけど……でも、確かに“偏り”はあるんだよ」
未唯が初めて、自分の感情の輪郭を認めた瞬間だった。
真は心の奥で、何かがほどけるような感覚を覚えた。
しかし同時に、未唯がまだ“誰とは言わない”ことの意味もわかっていた。
偏りはある。
でも、それを“好き”と言うにはまだ早い。
未唯にとって言葉は判断であり、判断とは普遍化を伴う行為であり、軽々しく下せるものではない。
「真くんの説明のおかげで……やっと自分の現象を、ちょっとだけ言葉にできたよ」
「……そっか」
真はそれ以上は言わなかった。
言った瞬間、何かが壊れそうな気がしたからだ。
ふたりのあいだに、夕暮れの光が差し込んだ。
光はまだ冷たいけれど、その冷たさの奥で、未唯の心のどこかがかすかに温まりはじめていることを、真ははっきりと感じ取っていた。




