ep. 46 偏りは因果か、現象か
未唯は、学食の窓側に座り、箸を持ったまましばらく動かなかった。曇りガラス越しに見える空がひどく白く、光そのものに輪郭がないように見える日だった。
「さっきの話、もう少し聞かせてほしい」
そう言いながら、真は向かいの席にトレイを置いた。ペンネームのように奇妙な苗字の男――広曽木真は、合理的な分析にすぐ走る癖がある。だが今日は、その癖がわずかにためらいを帯びていた。彼自身、話す内容が未唯の胸にどんな影を落とすか、薄く察していたのだろう。
「偏りが起こる原因、って話?」
「うん」
未唯はスープを一口すする。味はあるのに、味を飲んでいないような気がした。こういう感じは昔からある。何かを噛みながら、噛めていないような違和感。真が彼女を見るときの視線にも、似たような“実体のなさ”を感じてしまうことがある。
「真くんは、偏りには“因果”があるって思ってるんでしょ?」
「まぁ、ある程度はね。条件が重なって、それが心理的な重力みたいなものをつくって、注意が引き寄せられる。そんな感じ」
「重力……」
未唯は小さく繰り返し、その比喩を掌の上で転がすように眺めた。
「じゃあ、たとえば私の声の高さとか、話すテンポとか、そういうのが真くんの条件因になってる可能性があるってこと?」
「あるよ。もちろん。外見や声だけじゃなくて、価値観も、タイミングも、偶然の位置関係も、いろんなものが混ざり合って……」
真はそこまで言って、少し肩を落とした。
「シンプルな原因なんてないんだ。偏りってのは、要素が重なってできる“結果”であって……たったひとつの理由を掴もうとすると、逆に見失う」
未唯は頷きかけて、ふと首を振る。
「でもね、私は逆なんだよ」
「逆?」
「私は“原因”が重要じゃなくて、“現象”そのものの方が気になっちゃう。偏りが“起こってしまっている”という事実の方」
「それは……どういう意味?」
未唯は箸を置き、小さく息を吸い込んだ。
「真くんが私を見るとき、そこには“理由”があるって、真くんは説明しようとする。たとえば《声が落ち着く》とか《話し方が自然に耳に残る》とか、そういう細かい因果の積み重ね」
「うん。僕はそう考える」
「でもね、私には“見られているという現象そのもの”が、理由より先に来るの。つまりね……」
彼女は自分の胸のあたりをそっと押さえた。
「理由は後づけにしか感じられないの。“見られている”という事実の方が先にあって、それがどんな原因であれ、私の感覚には遅れてくる」
「……現象が先か」
「そう。私は“視線という現象”をまず体験してしまう。それは私の意思じゃ止められないし、真くんの因果の説明を聞いても、ああそうだったんだ、って後から理解するしかない」
真は顎に指を添えたまま、しばらく動かなかった。
真は「理解しよう」とする。
未唯は「体験してしまう」。
根本的な方向の違いが、丁寧に、しかし確実に姿を現し始めていた。
「じゃあ、未唯の中では、僕がどうして君を見ているのかって……あんまり関係ないの?」
「関係ない、ってわけじゃないよ」
未唯はそこで少し微笑んだ。それは自分でも気づかないうちに表情に現れてしまった、珍しい種類の笑顔だった。
「真くんがどうして私を見るのか。それを聞くのは好き。でも、私がまず受け取るのは“見られているという状態”なんだよ」
「状態、か……」
真はスプーンを回しながら考え込む。
「僕は因果から考える。君は現象から考える。つまり……」
「つまり?」
「同じ偏りでも、入口が違うってことか」
未唯は静かに頷く。
「私は、“説明されないまま起こってしまうこと”が、ちょっと怖い。理由がわからない偏りは、コントロールできないから。たとえば……」
そこで未唯は少し黙り、窓の外に目を向けた。淡い光が、彼女の頬に薄い影を落とす。
「たとえば、小さい頃からずっと母の視線だけを追っていたこと。あれも私にとっての“偏り”だった。でもその理由は、ずっとわからなかった。ただ、そうしてしまう現象が、止められなかった」
真は動きを止めた。
未唯が家庭の話を自分から出すのは珍しい。
そこには、偏りが“現象として起こる恐怖”の原型があった。
「偏りが因果だってわかっていたら、私はもっと安心できたかもしれない。でもね……」
未唯は真の目を見た。
「私はたぶん、“偏りとは現象である”って、どこかで思ってしまってる。理由が後から来るの。だから、真くんの偏りにも……少し怖さはあるんだよ」
「僕の偏りが、怖い?」
「うん。だって、理由がわからないうちは、どう扱ったらいいのか、わからないから」
その言葉に真はゆっくり息を吐き、机に置いた自分の手を見つめた。
(僕の“注意の偏り”が、未唯にとっては現象として迫っている……)
真の胸に、淡い罪悪感とも焦燥ともつかないものが生まれる。
偏りは、真にとっては「理解しようとする問題」だが、未唯にとっては「突然起こる出来事」なのだ。
未唯は少し寂しそうに笑った。
「でもね、真くんの説明を聞くと、ちょっとだけ救われる気がするの。偏りにも“仕組み”があるんだよって言われると、現象の暴力性みたいなものが薄まる気がするから」
「現象の暴力性……?」
「うん。“起こってしまう”って、ときどきすごく残酷なんだよ。嬉しいときもあるけど……怖いときもある」
真は胸の奥がぎゅっと締まるような感覚を覚えた。
「じゃあ、僕が偏りの因果を整理して説明するのは……未唯には役に立ってる?」
「うん。すごく」
未唯は、ほんの少し目を伏せて続けた。
「真くんが、私の現象の怖さを、言葉でほどいてくれてるみたいで」
その一言で、真の偏りはさらに深まった。
(僕が彼女を見てしまう理由の一部は……こうしてまた、増えていくのかもしれない)
窓の外の光が揺れる。
未唯の髪が揺れる。
説明できるもの、できないもの、その境界がゆっくりと曖昧になっていく。
偏りは因果なのか、現象なのか。
その答えは、まだ二人の間では定まっていない。
けれどその曖昧さそのものが、真の注意を未唯へとさらに傾けていくのだった。




