ep. 45 未唯の視点から見た“真の視線”
未唯は、その日の講義後、キャンパスの端にある図書館前のベンチに腰掛け、ノートパソコンの画面を閉じた。春の終わりかけの風が吹き抜け、髪が揺れる。普段であれば、小さなため息のひとつもつくところだが、今日は違った。胸の奥で、何かがじんわりとざわついていた。
理由ははっきりしている。
広曽木真――彼の視線だ。
「また、見てた……」
声に出した瞬間、頬がじわりと熱くなる。
ほんの少し、羞恥と困惑が混じった温度だった。
もちろん、真が彼女をじっと見つめてくるのは今に始まったことではない。真は隠そうともせず、いつも未唯の言葉の温度や間の取り方、指先の動きまで追うように見てくる。それが嫌かと言われたら、違う。むしろ、嫌ではない……という事実が、未唯には余計に理解しづらかった。
「注意って……なんだろうね」
彼女はひとりごとのように呟いた。
真が今日の議論で言っていた言葉が、頭の中で残響のように鳴っていた。
――関心の偏り。
――好きとは注意の奪取。
――君のことを考える割合が、他のすべてより大きくなる現象。
(そんなふうに言われても、私は……どうしたらいいの?)
未唯はふだん、他人から向けられる好意やまなざしに鈍い。小柄で愛らしいと言われることはあっても、それを「価値承認」だとか「恋愛的な注意」だとか、そんな概念に結びつけて考えたことがなかった。そもそも「好き」という感情自体があいまいで、未唯の中ではまだ輪郭がぼやけている。
だからこそ、真の視線は不思議だった。
わかりやすいのに、理解できない。
まっすぐなのに、捉えきれない。
熱を帯びているのに、どこか静か。
まるで、形而上学の問題を真正面から突きつけられているような、そんな感じだった。
(あの人は、どうしてそんなに私を見て……)
そこまで考えて、未唯は小さく喉が詰まるのを感じた。
胸の奥に、きゅっとした痛みのようなものが走った。
「……わからない」
彼女は膝の上で手をぎゅっと握った。
真の視線について悩んでいること自体が、もうすでに注意の偏りなのだと気づきかけている自分がいる。それを認めたくないような、けれど自分自身から逃げられないような奇妙な感覚。
図書館の自動ドアが開く音がして、学生が数人出てきた。その中に真の姿はなかった。それだけで、未唯の胸はわずかに沈む。
(……私、いま、何を期待したの?)
その問いは、どこにも逃げ場がない。
頭では理解できない。
でも、何かが心の奥で微かに動いている。
未唯は、真の視線に「価値承認」の影を見ていた。
彼の目は、彼女の欠点も、未成熟さも、言語化できない混乱も、全部まるごと観察し、それでもなお何かを肯定しているように思えた。
その肯定が何なのか、彼女にはまだわからない。
好きと言われても、返す言葉を持たない。
価値承認だと説明されても、しっくりこない。
けれど——
「真くんは……なんであんなふうに、私を見られるの?」
その疑問だけが、未唯の胸の中心に残った。
感情でもなく、欲求でもなく、義務でもなく。
もっと別の、名前を持たない何か。
真の視線は、彼女の中に存在していた“注意の静けさ”をかき乱すように入り込んでくる。
それは、未唯がずっと「理解する側」に徹してきた人生のリズムを乱し、彼女自身の足元を揺らすものだった。
(怖い……けど、嫌じゃない)
初めて抱いたその矛盾を、未唯は言葉にできなかった。
ただ、真の視線が、自分の輪郭を少しだけ変えてしまったという事実だけが、彼女に新しい思考の扉を開きつつあった。
そして、彼女は気づきかけていた。
――自分の中に、真という“例外”が生まれてしまったことに。




