ep. 44 未唯への注意の偏り
講義が終わると、真は自然に未唯を目で追ってしまう。別に監視しているわけでも、特別な意図を持っているわけでもない。むしろ逆だ。彼自身、「まただ」と気づくたびに小さな自己嫌悪が胸に灯る。
どうしてこんなにも、彼女が視界の端にあるだけで意識が吸い寄せられるのか。
友人と歩いても、人の波に押されても、真の注意だけは彼女の周りで不思議な渦のようにまとわりつく。
今日のゼミ後も例外ではなかった。
教室を出るとき、未唯はいつも通り控えめにノートを閉じ、ペンを胸の前で整える。その一連の動作を見るだけで、真の感覚はひどく繊細な音を拾い始める。椅子の擦れる音、誰かの笑い声、ページの擦過音――そのすべてが遠ざかり、彼女の動作だけが妙に鮮やかに見える。
どう見ても注意が偏っている。
なぜだろう。
「……また見てた?」
階段の踊り場で未唯がふと振り返った。真は一瞬、胸が跳ねるような動悸を感じた。
「え、あ、いや……見てたというか……」
「うん。見てたよね」
さらりと言われると、否定の余地がない。真は頬をかきつつ、言葉を探した。
「たまたま……たまたま視界に入っただけで……」
「真くん、そういう言い訳、下手だよ」
未唯は微笑むでもなく、責めるでもなく、ただ事実を述べるように言った。その落ち着いた声が、逆に真を焦らせる。
「いやでも、本当に……」
「謝らなくていいよ。ただ、ちょっと不思議だなって思っただけだから」
未唯は静かに視線を階段の下へ戻した。真も後に続く。
階段を降りながら、真は内心で自己弁護する。これは恋だからではない。単に、心理的な「注意の選択性」の問題だ。関心を持った対象には、カメラのピントのように自然と注意が集まる。ただそれだけだ。
……本当に?
自分に問い返すと、曖昧な沈黙が返ってくる。
校門まで歩く道すがら、未唯がぽつりと話した。
「真くんって、注意が偏るとき、どんな感じなの?」
「どんな感じって?」
「呼吸とか……考え方とか……心の動きとか。私は、自分の注意の配り方にあまり自信がないから、真くんはどうなのかなって」
「なるほど……」
真はしばらく考えてから、言葉を紡いだ。
「たぶん、僕はね……“何かが気になって仕方なくなる”っていう瞬間が来るんだよ。それが人の場合もあるし、研究のテーマの場合もある。だけど未唯のときは……それとはちょっと違う」
未唯が横目で真を見た。
「どう違うの?」
「うまく言えないけど……たとえばさ、部屋の中でひとつだけ光が強いところがあったら、自然にそっちを見ちゃうじゃん? そんな感じなんだ。意図してるわけじゃなくて……身体ごとそっちに向いてしまうというか」
未唯はゆっくりと瞬きをした。
「……それって、恋のことだよね?」
真は足を止めた。未唯もその一歩後ろで止まる。
「いや、恋……なのかな。僕は恋って、もっと劇的なものだと思ってたんだ。心臓が早くなるとか、目が離せなくなるとか、もっとわかりやすい何か。でも……未唯の場合は……」
言いかけて、真は口を閉じた。
未唯は言葉を代わりに拾った。
「“気づいたら見てる”っていう、それだけのこと?」
「そう。それだけなんだけど……その“それだけ”が、僕には大きいんだと思う」
未唯はしばらく沈黙した。
沈黙は、真にとっては不安の時間だったが、未唯にとっては思考の時間なのだと気づいてから、真は沈黙を急かさないように努めるようになった。
やがて未唯が、真の横顔を見るようにして言った。
「真くんの注意の偏りって……相手の価値判断なのかな。それとも、ただの反射?」
「それがわからないんだよ。正直に言うと、僕はまだ……未唯の全部を理解してるわけじゃないし、価値判断って言えるほど君を知ってるわけでもない。でも……気づいたら目がいってる。これは理屈じゃない」
「うん」
「だから、価値承認というよりは……“現象”なんだと思う。好きとか、恋とか、まだ言葉にできない現象」
未唯はゆっくりと息を吸った。
「……私ね、“見られる”っていう感覚が、昔からあまり得意じゃなかったの。でも、真くんに見られてるときは、不思議と嫌じゃないの」
真は息をのんだ。
「それは……いい意味?」
「わからない。でも、嫌じゃない。たぶん、それって……私の判断の問題だと思う。価値判断って、感情の前にあるものでしょう? だったら……真くんに注意を向けられている私自身が、その状況に“価値がある”と思っているのかもしれない」
真は言葉を失った。
未唯が自分の内側をこんなに率直に語るのは珍しい。彼女自身が「価値判断」という概念を通じて、自分の情動を慎重に測っているのだと分かる。
「でもね」と未唯は続けた。「それでも、私は恋がわからない。好きという感情の正体も。でも……真くんが私を見るときの“偏り”は、私にとっては……少しだけ、あたたかい」
その言葉は、真にとって雷にも似た衝撃だった。
「未唯……」
「だから、ありがとうとか、そういうものでもないの。ただ……あなたの視線は、嫌ではない。それだけ」
そう言うと未唯は歩き始めた。
真はその後ろ姿を見つめながら思った。
自分の注意が偏ることには理由がある。それはおそらく、未唯の言葉で言う「価値判断」と呼ぶべきものかもしれない。
そして、その偏りが未唯にとって“あたたかい”と感じられるなら――そこには確かに、まだ名前のつかない何かが存在しているのだ。
それは恋なのか。
それとも、恋よりももっと未熟な、しかし確かな萌芽なのか。
真にはそれがわからない。
ただ、わからないという事実が、彼を少しだけ幸福にした。
その“わからなさ”こそが、未唯が彼の注意を奪う理由なのかもしれない。




