ep. 43 情動と注意の関係
大学の図書館には独特の静けさがある。空気が薄くなるような沈黙ではなく、むしろ本の背表紙たちがひそやかに語り合っているような、かすかなざわめきが漂う静けさだった。広曽木真は、その静けさの中に身を沈めながら、目の前の書籍よりも、同じテーブルの斜め向かいに座る大都乃未唯のほうに意識が引き寄せられていくのを止められなかった。
もちろん、彼は自分が集中力のあるほうだと自負している。19世紀ドイツ哲学史、とくに精神哲学から科学哲学へ移行していくプロセスを追いかけるのは、そこそこ骨の折れる研究だ。それでも真は、講義資料を読むときには自然と頭のなかに地図のような構造を組み立てられるし、議論の系譜を整理するのも得意だった。
——なのに、未唯がページをめくるその音だけで、地図は崩れ、整理した系統図もぼんやりと霞んでしまう。彼女が指先で紙を軽く押さえる仕草だけで、真の注意は容赦なく奪われる。
これは、どう考えても正常な“集中”ではない。
未唯は本から顔を上げた。真の視線に気づいたらしい。
「……真くん、また私のこと見てた?」
「いや、えっと、違うんだ。これは……」
言葉が詰まる。理屈の男であるはずの真が、もっとも苦手な瞬間だった。
未唯は少し眉を寄せ、しかしどこかあたたかい眼差しで真を見る。
「真くんの“注意の偏り”って、いつも唐突じゃない? さっきまで本を読んでたのに、急にそっちが消える感じがする」
「……意図的じゃないんだよ」
「それは、わかってる。意図的だったら、もっと嫌悪感があると思うし」
真は苦笑した。未唯ならではの率直な言い方だった。
「でもね、真くん。注意がそんなふうに急に向くってことは、そこに“情動”があるからなんだと思うよ」
「情動?」
「うん。感情よりも前にある、身体が反応してしまう根っこの部分。感情より粗くて、でも感情より深いところにある反応」
未唯の語りは、いつもどこか“丁寧に考え抜かれたあと”のような響きをもっている。カントを読んできたからなのか、それとも生きてきた環境ゆえなのか。少なくとも真には、それが特別だと思えた。
未唯は続ける。
「例えばね。怖い音がしたら、とっさに注意がそっちに奪われるでしょ? 頭で“見なきゃ”って考えるより先に、身体が勝手にそっちに反応する。あれが情動による注意の引き寄せ」
「確かに……それは理解できる」
真は頷いた。認知科学や心理学にも多少の雑学的知識はある。情動は脳の深部構造による処理で、意識より早く反応が起こる。そういう話は知っていた。
「でね、恋愛もそれに近いって私は思うの。対象が“安全かどうか”とか“価値があるかどうか”とか、論理的に判断する前に……なぜか真くんの視線が私に向くみたいな、それってたぶん、情動レベルの出来事なんじゃないかなって」
「でもそれは……理屈で説明できない領域ってことになるよね?」
「そう。説明できないのは悔しいけど、でもそこに本物がある気がする」
未唯は読んでいた本を閉じ、軽く息を吐いた。胸の奥に溜めていた想いを慎重に言葉にしているような、そんな吐息だった。
「真くんが私のほうを見るのって、論理の結果じゃない。私が何を言ったとか、どう動いたとか、それよりもっと原始的なところで惹かれてるんだと思う」
「……つまり、僕の注意は、僕の意思じゃないところで引き寄せられてる?」
「そう思うよ。私も、自分で全部コントロールできてるわけじゃないし」
真は静かに息を飲んだ。
自分の注意が勝手に動く。彼自身はそれを「弱さ」や「不注意」だと思っていた。しかし未唯は、それを「情動の働き」として丁寧に解釈してくれる。
単なる弱点ではなく、理解すべき現象として扱ってくれる。
その事実が、胸の奥にじわりと染み込んだ。
「じゃあ……僕の注意が君に向くのは、感情があるってこと?」
「ううん、まだそこまでは言えないと思う」
未唯は静かに首を振る。その表情は、少しだけ柔らかかった。
「情動は感情より前の段階だから。“好き”という確定したラベルを貼るには早い。でもね……“気になっている”とか、“気にしている”とか、そのくらいの段階には来てると思う」
「……なるほど」
真は思わず笑ってしまった。
「僕は感情でさえ、カント的に整理しようとしてたんだな」
「ふふ。真くんらしいよ。でもね、全部を理性で整理しなくてもいいと思うよ」
それは、未唯にとってはとても自然な言葉だったのだろう。しかし真には、それが胸に深く響いた。
彼の世界はいつも「合理」と「説明」で満ちていた。思考は速く、整理も上手く、構造化も得意で、だからこそ“曖昧なもの”が苦手だった。
だが、未唯はその曖昧さを“抱えながら進んでいける人”だった。
「情動が注意を動かして、注意が感情の発火点になる。私は、そういう順番があるんじゃないかと思ってる」
「それは……好きの始まり、ってこと?」
「……かもしれないし、そうじゃないかもしれない。でも、“注意を向けてしまう”っていう現象は、たしかに何かを示してるよ」
未唯の声は小さかった。図書館の沈黙に吸い込まれていくような、曖昧と確かさのあいだに揺れる声だった。
真は彼女を見た。どうしても視線が向いてしまう。それを否定する理由が、もう見つからなかった。
「……君に注意が向くのは、悪いことじゃないよね?」
「うん。悪いことじゃないよ」
未唯は、小さく笑った。
その笑みは、真の注意をさらに強く引き寄せた——情動が、またひとつ、静かに燃え始めていた。




