ep. 42 注意の選択性
翌日の昼下がり、図書館の六階。窓際の丸テーブルは静かで、午後の光だけが柔らかく差し込んでいた。真は分厚い十九世紀哲学史のテキストを開いたまま、しかしページをほとんど読んでいなかった。視線は行間をさまよって、すぐ向かいに座る未唯を吸い寄せるように漂う。
未唯は気づいているのか、いないのか。黒縁の眼鏡越しに『実践理性批判』を読みながら、蛍光ペンで慎重に線を引き、語句の余白に細かくノートを書き写す。余計な動きはほとんどないのに、真の注意はなぜか彼女の手元、体温、視線のわずかな動きへと吸い寄せられる。
未唯が口を開いた。
「……さっきから、全然進んでないよ。真くん」
「……ああ、まあ。今日はちょっと集中できなくて」
「ずっと同じページめくってるもん」
「そんなに見てるの?」
「うん。視界に入るから」
その言葉が、真の胸に微妙な振動を生んだ。
“視界に入るから”。
それは、彼女の注意が自分に向く瞬間があるということだろうか――そんな希望を抱くと同時に、それが単に「動くものの方を目が追う」という生物学的反応にすぎない可能性も同じくらい強かった。
真はふと、昨日の議論を思い出す。
「好きって、関心の偏りでもあると思うんだ」
あのとき未唯は言葉を選ぶように黙り込んだ。偏り。注意。
今日の議論は、その続きに入れる気がした。
「ねえ、未唯。注意ってさ、選んでると思う?」
「どういう意味?」
「無意識に向く注意じゃなくて……選択してる注意のこと。自分で“どこを見るか”を決めてるのかなって」
未唯はペンを止め、真に視線を向けた。
その動作だけで、真の注意はまた一瞬で全部持っていかれた。
この奪われ方自体が、まさに今日のテーマなのだと思うと、少し可笑しくなる。
「選択、か……」未唯は細い指でページの端をなぞりながら言った。「たぶん、両方だと思う。無意識に引き寄せられる注意もあるし、意識して向ける注意もある。でも、恋愛に関係するのは前者じゃない?」
「前者?」
「無意識に奪われる方の注意。意識して向けてるんだったら、それは単なる“観察”だよ」
真は頷きながら、少し笑った。
「確かに。意識して見ようって思うのは、たぶん好きとは別のプロセスだよな」
「うん。自分で決めて向ける注意は、たぶん“義務”とも関係するしね」
「義務?」
「そう。たとえば、授業中に先生の話を聞くとか。集中しなきゃいけないところに注意を向けるのは、自分がそう決めたからだし、ある程度コントロールできる。でも……真くんの言う“好き”はそうじゃないんじゃない?」
真は、頬に手をあてながら苦笑した。
鋭い。いつものように、未唯は本質に近いところを素早く突く。
「じゃあ、無意識に向く注意が……偏り、か」
「うん。偏りだと思う。だって、本来自由に分散するはずの注意が、特定の人に集まっちゃうんだから」
未唯の説明は淡々としているのに、まるで自分の心の動きが言語化されていくようだった。
真は勇気を出して、少し踏み込む。
「じゃあさ……俺が未唯のことをよく見ちゃうのも、偏り?」
「うん、偏りだと思う」
「早いな、答えが」
「だって現象としてそう見えるから」
未唯は淡々と答えたが、その耳の先がわずかに赤くなっていることに真は気づいた。
しかし、それを指摘する勇気はなかった。
「じゃあさ、未唯は俺のどこを見てるの?」
真がそう尋ねた瞬間、未唯は一瞬固まった。
視線が少し揺れて、ほんの短い沈黙が落ちる。
「……それは……」
言葉を濁したまま、未唯は視線をテーブルへ落とす。
「未唯にも、偏りはあるの?」
「……ある、かもしれないけど……たぶん真くんとは違う種類だよ」
「違う?」
「うん。私は……注意が向いたとしても、それを“好き”って呼べるか全然わからない。すぐに判断したくないっていう気持ちの方が強い」
その言葉に真は小さく息をついた。
未唯の慎重さ、距離の取り方、その奥にある不安。
全部を否定せずに受け止めたいと思う。
「判断したくない、か……」
「うん。注意が向くのは事実だけど、それが感情なのか、興味なのか、単なる観察なのか……判断できないままなんだと思う」
「でもさ、注意が向いてるのは向いてるんだよな?」
「……たぶん」
「たぶんって便利だな」
未唯は、少し笑った。
その笑顔を見た瞬間、真の注意は完全に彼女へと引き寄せられ、逃げ場を失った。
「でも真くん」未唯は小さく息をつきながら言う。「注意が向くのって、その人が何か“気になる”からだよね。それは認める」
「じゃあ、俺は未唯にとって“気になる人”ってこと?」
「……そう、かもしれない」
その言葉は、静かに、しかし確実に真の胸の奥へ届いた。
告白が失敗したあの日から、初めて未唯の口から出た肯定に近い言葉だった。
「ただしね」と未唯は続けた。「それをすぐに“好き”って呼びたくないの。価値判断が追いつかないから」
「価値判断?」
「うん。注意が向く理由が感情なのか、価値なのか、興味なのか、単に真くんの動きが大きいからなのか、全部ちゃんと区別して考えたい。私は……そういうふうに自分の心を観察したいタイプだから」
「面倒くさいタイプ、ってこと?」
「そうかもしれない」
未唯は自嘲気味に笑った。
でも、その控えめな笑顔の奥には、自分の心を杜撰に扱いたくないという真剣さが滲んでいた。
「でもさ、未唯。その慎重さ、俺は好きだよ」
「……そう言われても、困るよ」
「困らせたくて言ってない」
「でも……そう言われると、また注意が乱れるから」
「乱れるの?」
「……うん。少しだけ」
その瞬間、真の胸のどこかが熱くなった。
注意の偏りは、片方だけの現象ではない。
微弱だけれど、未唯の側にも確かに生じている。
それが今日の議論の、最初の収穫だった。
未唯は本を閉じながら言う。
「……注意って、本当はすごく暴力的な現象なんだと思う。奪われるし、奪ってしまうし、自分ではどうにもできない部分もあるし。でも……その暴力が怖いからこそ、慎重でいたい」
「怖いの?」
「うん。怖いよ。真くんは、怖くないの?」
真はしばらく考えた。
注意が奪われる怖さ。
その偏りが自分の判断や行為を狂わせる可能性。
そしてその偏りを“好き”と誤認する危険性。
「……怖いよ。でも同時に、嬉しいかな」
「嬉しい?」
「奪われるのって、相手が特別だからだろ? それを感じられるのは……まあ、生きてるって感じがするから」
未唯は目を伏せた。
「……私はまだ、嬉しいかどうかわからない。でも、気になってるのは事実だと思う。真くんの視線とか、声とか、反応とか……それを“見てる”って自覚はある」
「それが偏りじゃないの?」
「うん。そうだと思う。でもその偏りを、すぐに意味づけたくないの。判断する前に、現象として観察していたい」
「観察……ね」
未唯らしい言葉だと思った。
観察者であろうとする彼女。
感情の即時的な結論を拒み、揺れる心をそのまま見つめる態度。
真は、そんな未唯の考えに強い魅力を感じた。
図書館の空気は静かで、二人の沈黙は不思議と心地よかった。
注意の偏りは、もう隠しようがないほど確実に存在している。
それをどう扱うか――二人はこれから、その問いに向き合っていくのだろう。




