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好きがわからない君へ告白したら、カント倫理学でフラれました。 ――それでも僕たちは、自律から始まる恋を続けていく  作者: 目田 不識(めた・ふしき)
第4章 関心の偏りの謎

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ep. 42 注意の選択性

 翌日の昼下がり、図書館の六階。窓際の丸テーブルは静かで、午後の光だけが柔らかく差し込んでいた。真は分厚い十九世紀哲学史のテキストを開いたまま、しかしページをほとんど読んでいなかった。視線は行間をさまよって、すぐ向かいに座る未唯を吸い寄せるように漂う。


 未唯は気づいているのか、いないのか。黒縁の眼鏡越しに『実践理性批判』を読みながら、蛍光ペンで慎重に線を引き、語句の余白に細かくノートを書き写す。余計な動きはほとんどないのに、真の注意はなぜか彼女の手元、体温、視線のわずかな動きへと吸い寄せられる。


 未唯が口を開いた。


「……さっきから、全然進んでないよ。真くん」


「……ああ、まあ。今日はちょっと集中できなくて」


「ずっと同じページめくってるもん」


「そんなに見てるの?」


「うん。視界に入るから」


 その言葉が、真の胸に微妙な振動を生んだ。

 “視界に入るから”。

 それは、彼女の注意が自分に向く瞬間があるということだろうか――そんな希望を抱くと同時に、それが単に「動くものの方を目が追う」という生物学的反応にすぎない可能性も同じくらい強かった。


 真はふと、昨日の議論を思い出す。

 「好きって、関心の偏りでもあると思うんだ」

 あのとき未唯は言葉を選ぶように黙り込んだ。偏り。注意。

 今日の議論は、その続きに入れる気がした。


「ねえ、未唯。注意ってさ、選んでると思う?」


「どういう意味?」


「無意識に向く注意じゃなくて……選択してる注意のこと。自分で“どこを見るか”を決めてるのかなって」


 未唯はペンを止め、真に視線を向けた。

 その動作だけで、真の注意はまた一瞬で全部持っていかれた。

 この奪われ方自体が、まさに今日のテーマなのだと思うと、少し可笑しくなる。


「選択、か……」未唯は細い指でページの端をなぞりながら言った。「たぶん、両方だと思う。無意識に引き寄せられる注意もあるし、意識して向ける注意もある。でも、恋愛に関係するのは前者じゃない?」


「前者?」


「無意識に奪われる方の注意。意識して向けてるんだったら、それは単なる“観察”だよ」


 真は頷きながら、少し笑った。


「確かに。意識して見ようって思うのは、たぶん好きとは別のプロセスだよな」


「うん。自分で決めて向ける注意は、たぶん“義務”とも関係するしね」


「義務?」


「そう。たとえば、授業中に先生の話を聞くとか。集中しなきゃいけないところに注意を向けるのは、自分がそう決めたからだし、ある程度コントロールできる。でも……真くんの言う“好き”はそうじゃないんじゃない?」


 真は、頬に手をあてながら苦笑した。

 鋭い。いつものように、未唯は本質に近いところを素早く突く。


「じゃあ、無意識に向く注意が……偏り、か」


「うん。偏りだと思う。だって、本来自由に分散するはずの注意が、特定の人に集まっちゃうんだから」


 未唯の説明は淡々としているのに、まるで自分の心の動きが言語化されていくようだった。


 真は勇気を出して、少し踏み込む。


「じゃあさ……俺が未唯のことをよく見ちゃうのも、偏り?」


「うん、偏りだと思う」


「早いな、答えが」


「だって現象としてそう見えるから」


 未唯は淡々と答えたが、その耳の先がわずかに赤くなっていることに真は気づいた。

 しかし、それを指摘する勇気はなかった。


「じゃあさ、未唯は俺のどこを見てるの?」


 真がそう尋ねた瞬間、未唯は一瞬固まった。

 視線が少し揺れて、ほんの短い沈黙が落ちる。


「……それは……」


 言葉を濁したまま、未唯は視線をテーブルへ落とす。


「未唯にも、偏りはあるの?」


「……ある、かもしれないけど……たぶん真くんとは違う種類だよ」


「違う?」


「うん。私は……注意が向いたとしても、それを“好き”って呼べるか全然わからない。すぐに判断したくないっていう気持ちの方が強い」


 その言葉に真は小さく息をついた。

 未唯の慎重さ、距離の取り方、その奥にある不安。

 全部を否定せずに受け止めたいと思う。


「判断したくない、か……」


「うん。注意が向くのは事実だけど、それが感情なのか、興味なのか、単なる観察なのか……判断できないままなんだと思う」


「でもさ、注意が向いてるのは向いてるんだよな?」


「……たぶん」


「たぶんって便利だな」


 未唯は、少し笑った。

 その笑顔を見た瞬間、真の注意は完全に彼女へと引き寄せられ、逃げ場を失った。


「でも真くん」未唯は小さく息をつきながら言う。「注意が向くのって、その人が何か“気になる”からだよね。それは認める」


「じゃあ、俺は未唯にとって“気になる人”ってこと?」


「……そう、かもしれない」


 その言葉は、静かに、しかし確実に真の胸の奥へ届いた。

 告白が失敗したあの日から、初めて未唯の口から出た肯定に近い言葉だった。


「ただしね」と未唯は続けた。「それをすぐに“好き”って呼びたくないの。価値判断が追いつかないから」


「価値判断?」


「うん。注意が向く理由が感情なのか、価値なのか、興味なのか、単に真くんの動きが大きいからなのか、全部ちゃんと区別して考えたい。私は……そういうふうに自分の心を観察したいタイプだから」


「面倒くさいタイプ、ってこと?」


「そうかもしれない」


 未唯は自嘲気味に笑った。

 でも、その控えめな笑顔の奥には、自分の心を杜撰に扱いたくないという真剣さが滲んでいた。


「でもさ、未唯。その慎重さ、俺は好きだよ」


「……そう言われても、困るよ」


「困らせたくて言ってない」


「でも……そう言われると、また注意が乱れるから」


「乱れるの?」


「……うん。少しだけ」


 その瞬間、真の胸のどこかが熱くなった。

 注意の偏りは、片方だけの現象ではない。

 微弱だけれど、未唯の側にも確かに生じている。


 それが今日の議論の、最初の収穫だった。


 未唯は本を閉じながら言う。


「……注意って、本当はすごく暴力的な現象なんだと思う。奪われるし、奪ってしまうし、自分ではどうにもできない部分もあるし。でも……その暴力が怖いからこそ、慎重でいたい」


「怖いの?」


「うん。怖いよ。真くんは、怖くないの?」


 真はしばらく考えた。

 注意が奪われる怖さ。

 その偏りが自分の判断や行為を狂わせる可能性。

 そしてその偏りを“好き”と誤認する危険性。


「……怖いよ。でも同時に、嬉しいかな」


「嬉しい?」


「奪われるのって、相手が特別だからだろ? それを感じられるのは……まあ、生きてるって感じがするから」


 未唯は目を伏せた。


「……私はまだ、嬉しいかどうかわからない。でも、気になってるのは事実だと思う。真くんの視線とか、声とか、反応とか……それを“見てる”って自覚はある」


「それが偏りじゃないの?」


「うん。そうだと思う。でもその偏りを、すぐに意味づけたくないの。判断する前に、現象として観察していたい」


「観察……ね」


 未唯らしい言葉だと思った。

 観察者であろうとする彼女。

 感情の即時的な結論を拒み、揺れる心をそのまま見つめる態度。


 真は、そんな未唯の考えに強い魅力を感じた。


 図書館の空気は静かで、二人の沈黙は不思議と心地よかった。

 注意の偏りは、もう隠しようがないほど確実に存在している。

 それをどう扱うか――二人はこれから、その問いに向き合っていくのだろう。

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