ep. 41 関心の偏りとは
広曽木真は、最近、自分の視線が勝手に動くのを止められなかった。講義中でも、図書館でも、大学の広い中庭でも、その“勝手な動き”は続く。気がつくと、筆記音の隙間から、椅子の軋む音がした瞬間に、あるいは窓の外の風の流れが少し変わっただけで、真の注意はいつのまにか彼女の方へ引き寄せられている。
大都乃未唯。
哲学科の同級生で、カント倫理学を専攻する、少し小柄な女子学生。声は静かで、言葉を選びながら話す癖がある。真にとって彼女は、論理式にも比喩にもならない“説明不可能な中心”のような存在だった。
もちろん、その“説明不可能さ”が真を苛立たせる。
彼は理屈の人間だ。19世紀哲学史を専攻としている以上、議論の構造や思想の原理はなんとなく見えてしまう。その眼で世界を見てきたのに、未唯という存在だけは、まるで古典力学では扱えない量子のように、観測するたびに振る舞いを変えてしまう。あるいは、真が測定しようとすればするほど、本質が霧散してしまうかのようだった。
この日の昼休み、二人は学部棟裏のベンチでノートを広げていた。真が広げているのは、前期に履修した「認識論史」講義の復習ノートで、未唯の膝には『実践理性批判』の文庫版。少し古びた表紙には、何度も読み返した跡が刻まれている。
「なあ、未唯。最近ずっと考えてるんだけどさ」
「うん」
未唯は顔だけをこちらに向ける。その動きは、言語よりも先に世界を受けとるような、慎重で静かな所作だった。
「関心の偏りって、なんで起きるんだろう。俺、どうしても理屈で説明したいんだ」
「偏り……?」
「そう。たとえば——」
真は空を指す。冬の入りかけの曇り空は、ちょうど雲がゆっくり移動しているところで、白と灰色が混ざって生き物のように形を変えていた。
「普通、注意ってさ、外から来る刺激に反応するだろ。音が鳴れば振り向くし、色が動けば見ちゃう。でも最近、俺は外の刺激じゃなくて、“条件そのもの”に関心が引っ張られてる気がする」
「条件?」
「未唯がそこにいる、ってだけで注意が持っていかれるってこと」
未唯の肩が、それと気づかれない程度にわずかに揺れた。
だが表情は変わらない。真を見つめる瞳は、いつものように少し遠い場所を見ているような、深い内省を含んだ静けさだった。
「……それは、わたしの行動に原因があるんじゃなくて?」
「ない。むしろ、行動と無関係なときほど強い。たとえば、君がただページをめくってるだけのときとか。歩いてるだけのときとか。声が聞こえるわけでも、視界の中心に来るわけでもないのに、不思議と“そこ”が気になるんだよ」
未唯は目を瞬かせる。
その仕草が、真の注意をさらに引き寄せていく。
「……それって、現象じゃない?」
「現象?」
真は眉を寄せる。
「うん。わたし――というか、わたしの意識から見るとね。注意って、外的刺激だけじゃなくて、その人の内部状態にも左右されるんだと思うの。ちょっとした感情とか、価値判断とか、過去の記憶とか……そういうものが積み重なって、視線が偏るんじゃないかな」
「つまり、それには因果があるってこと?」
「因果……と言い切れるかはわからない。わたしは、そこに“理由づけ”できるほど整理できてないから……」
未唯の声はいつものように穏やかで、しかしどこか自分の内部に小さな霧を抱えているかのようだった。
「でもね、真くんの言う“偏り”って、単純な因果じゃ説明できない気がする。気づいたらそうなっている、みたいな……」
真は自分の胸の奥に、その言葉がすっと入り込むのを感じた。
「気づいたら、か。なるほどな」
「うん。“好き”の話に似てると思う」
未唯は、ページを一枚めくった。
紙が空気をすべる音が、二人のあいだに静かな溝をつくる。
「快とか価値判断とか、いろんな要素が重なって、でもどれが決定的な原因かははっきりしない。それが“好き”でしょ?」
「だな。……いや、そう思いたいのかもしれない」
「思いたい?」
「俺は、原因を見つけたいんだよ。君を好きになった原因。関心が偏る理由。注意が奪われる構造。それがわからないまま、ただ感情が先走ってるのは……嫌なんだ」
未唯は少しだけ首をかしげた。
「……真くんって、やっぱり真面目だね」
「真面目というか、うん、まあ……そうかもな」
「わたしだったらね、“注意が向く”っていう現象そのものを、まず受け入れると思う。理由はあとからでいいというか……」
真は息を飲む。
その瞬間、また視線が勝手に動いた。
未唯の横顔――静謐で、強さと弱さを同時に抱えたような表情。
その輪郭に、一瞬、風の影が重なった。
「……それが、君の強さなんだよ」
気づけば真は、そう言っていた。
未唯はわずかに目を丸くしたあと、きちんと真を見返す。
その視線は、いつもよりずっとまっすぐだった。
「強さ、なの?」
「俺にはできないから」
未唯はうつむく。
ほんの少し頬が赤く見えるのは、曇り空に差した光のせいか、それとも別の何かか。
「……真くんは、ちゃんと考えられる人だよ。わたしはむしろ、考えるより先に“感じてしまう”から、弱いのかもしれない」
「違う。感じられるのは強い。俺みたいに、理屈ばっかりで走ってると、何が何だかわからなくなるんだよ」
二人のあいだに、短い沈黙。
しかしその沈黙は、これまでと違って重くなかった。
むしろ、どこか穏やかで、互いの存在を静かに確認し合うような時間だった。
「関心の偏りってさ」
真は空を見上げながら言う。
「君の言うとおり、現象なのかもしれない。理由じゃなくて、まずは起きてしまうこと。そのあとで理由がついてくる。そして、その理由も一つじゃない」
未唯は小さく頷く。
「うん。わたしもそう思う。……それでね」
「ん?」
「多分、その偏りがあるから――好きって、成立するんだと思う」
真は言葉を失った。
未唯が“好き”という語を口にするのが初めてだったからだ。
もちろん、それは真への好意ではない。
ただ概念の話題に過ぎない。
それでも、その一語は、真の胸の中心で確かな質量を持って着地した。
そして真は、気づかぬうちに微笑んでいた。
――注意が奪われる。
――偏りが生まれる。
――それが“好き”の前段階。
その構造が、ようやく形を帯び始めていた。




