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好きがわからない君へ告白したら、カント倫理学でフラれました。 ――それでも僕たちは、自律から始まる恋を続けていく  作者: 目田 不識(めた・ふしき)
第3章 価値承認とは何か

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ep. 40 小さな心の揺れ

 授業が終わり、教室を出たところで、真はいつものように未唯を待っていた。

 未唯はすぐにその姿に気づくと、軽く息を吸い、ほんの少しだけ歩幅を緩めた。気づかれたくはないが、完全に無視できるほど無関心でもいられない——そんな曖昧な速度の変化だった。


「今日、どうする? 図書館、行く?」

 真は何気ないように声をかけた。だが、その声の奥には昨日の議論の続きを求める熱が潜んでいる。


「行く。……昨日の話、まだ終わってないし」


 未唯は同じく何気なく答える。

 しかし、彼女の返事には、ごくわずかに“期待”のような影が混ざっていた。


 二人は並んで図書館へ向かう。

 外は蒸し暑く、春の終わりと初夏の境界のような空気が漂っていた。


 歩きながら、未唯は昨日の議論を思い返していた。真が言った、「好きは、相手の価値を認めること」。その言葉が、どうしても頭から離れない。


 ——価値承認。

 ——私は、誰かを価値として見たことがあっただろうか。


 母はずっと働きづめで、未唯は幼い頃から“役に立つ子ども”であろうと努めてきた。

 価値とは常に、自分の外側にあった。

 母にとっての価値、教師にとっての価値、社会にとっての価値——

 その基準を満たせるように生きてきた。


 「自分が誰を価値として見るのか」

 などと考えたことは、ほとんどなかった。


 図書館の自動ドアが開き、涼しい空気が二人を包んだ。

 真は迷いなくいつもの席へ向かう。未唯も自然にその横の椅子へ座る。

 机の上にノートを広げると、真は少し息を整え、昨日の続きを切り出した。


「昨日、俺が言った“好き=価値承認”ってさ。

 あれ、もう少しだけ説明していい?」


「うん。……まだ、よくわかってない」


 未唯の声は静かだが、耳を傾ける姿勢は真剣だった。


「価値ってさ、判断じゃん。判断って、理由がある。

 たとえば、“この本は名著だ”って思うとき、内容が優れてるとか、影響が大きいとか、理由があるよね」


「そうだね。それはわかる」


「じゃあ人を価値として見るときも、理由がないと判断にならない。

 好きって感情が、その理由のカタマリなんじゃないかって思うんだ」


「理由……の、かたまり?」


 未唯は少し首をかしげた。

 彼女の言葉は常に精密だが、この問いの前では少し揺れを帯びている。


「うん。言語化できない価値の束、みたいな。

 “この人のここがいい”って全部細かく言葉にする前に、感情として先にやってくる……そういう価値判断の原型」


「価値判断の“原型”…か」


 未唯はノートを指先で軽く叩きながら、何度もその言葉を口の中で転がしていた。

 感情が判断の前段階にあるという発想は、カント的には慎重に扱うべきものだ。

 しかし完全に否定できるほど単純でもない。


「でも……価値判断って、普遍化できるかどうかが重要でしょ? 

 感情は……普遍化できない」


「そこがさ、俺たちのすれ違いなんだと思う」


 真の声は穏やかだった。未唯に反論するのではなく、“差異そのもの”を示すような柔らかい言い方だった。


「俺は、未唯が言う“普遍性”の意味での価値判断じゃなくて……

 もっと素朴な、“その人を大切に思う理由”って意味で言ったんだよ」


 未唯は真の横顔を見た。

 彼の表情はいつもより少しだけ大人びて見えた。

 昨日までただ議論に熱中していた少年が、いまはひとつの結論に苦心する研究者のように見える。


 ——この人、ちゃんと考えているんだ。


 気づけばその思いが胸に芽生えていた。

 それは価値承認の最小単位のようなものだった。


「……でも、それを言われても困る」


 未唯は少しだけ視線を落とした。

 困る、という言葉の中には、拒絶でもなく無関心でもない、説明しづらい揺れが潜んでいる。


「困るって?」


「……理由が……わからないから。

 私、誰かを“価値だ”と思ったことがあまりない。

 ずっと、義務とか責任とか……そういう基準でしか考えられてこなかったから」


 真は息を呑んだ。

 未唯の言葉は、彼女自身の生活史の深層に触れている。

 普段なら語らない種類のものだ。


「未唯……」


「だから……価値承認って言われても……

 “どうやってそれを判断するのか”が、まだよくわからない。

 好きって……判断なのか、感情なのか……どっちつかずで……」


 未唯は言葉を途中で切り、息を整えた。

 感情を語ること自体が、彼女には重労働のように見える。


「ただ……ひとつだけ……」


 真はそっと顔を上げた。


「ひとつだけ……昨日からずっと気になってることがあるんだ」


「何?」


「あなたが……“価値として見ている”ものが、少しだけわかった気がする」


 未唯は戸惑った。

 自分が誰かを価値として見たことなど、ほとんどないと思っていたのだ。


「私は……何を価値として見てるの?」


 真は、少し照れくさそうに笑った。


「俺が……昨日、一生懸命説明しようとしたとき……

 未唯、ちゃんと聞いてくれた」


 その瞬間、未唯の呼吸が一瞬止まる。


「それは……議論だから……」


「違うよ。議論なら、もっと“論理”だけを見るはずだろ?

 でも未唯は……俺の“わからなさ”に耳を傾けてくれた」


 言葉を飲み込むように、未唯は視線を机へ落とした。


「それって……価値の一部なんじゃないかって、俺は思う。

 俺の話を、ちゃんと聞こうとしてくれる未唯の姿勢。

 それ自体が……俺には、すごく大事に思えたんだ」


 未唯は、胸の奥がじんわり熱くなるのを感じた。

 それは恋と呼ぶにはあまりに淡く、しかし無関心とは呼べないほどには確かな変化だった。


「……そんなことで……?」


「そんなこと、なんかじゃない」


 真ははっきりと言った。


「価値って、大きいものだけじゃない。

 誰かの話をちゃんと聞く、とか。

 真剣に向き合う、とか。

 そういう小さな積み重ねが、誰かを価値として見る理由になるんじゃないかって、俺は思う」


 未唯は何も言えなかった。

 言葉が出ないというより、言葉にならない感覚が胸に留まっていた。


 ——私が……価値として見られている?


 そんな実感を得たことは、一度もなかった。

 その未知の感覚が、彼女の心に微かな震えを生んでいた。


「……価値承認って……そんなふうに、起きるの?」


「俺は、そう思う。

 論理じゃなくて、生活の中の小さな場面で」


 未唯は視界が少しだけにじむような感覚を覚えた。


 彼女は顔を上げられなかった。

 目を合わせれば、何かが変わってしまいそうだったから。


「……よく、わからない」


 しかしその言葉は、拒絶ではなかった。

 むしろ——「もっと知りたい」という感覚の裏返しのように真には聞こえた。


 真は、小さく笑った。


「大丈夫。ゆっくりでいいよ。

 俺だって、全部わかってるわけじゃない」


「……そんな言い方ずるい」


 未唯はそうつぶやき、少しだけ肩を震わせた。

 それが笑いなのか、緊張の緩みなのか、本人にもわからなかった。


 だがその瞬間——未唯の中で、ごく微細な“価値の芽”が確かに動いた。


 小さな、小さな揺れだった。


 しかしその揺れは、これまで彼女の中には存在しなかった種類のものだった。


 そして真は、その変化を見逃さなかった。

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