ep. 40 小さな心の揺れ
授業が終わり、教室を出たところで、真はいつものように未唯を待っていた。
未唯はすぐにその姿に気づくと、軽く息を吸い、ほんの少しだけ歩幅を緩めた。気づかれたくはないが、完全に無視できるほど無関心でもいられない——そんな曖昧な速度の変化だった。
「今日、どうする? 図書館、行く?」
真は何気ないように声をかけた。だが、その声の奥には昨日の議論の続きを求める熱が潜んでいる。
「行く。……昨日の話、まだ終わってないし」
未唯は同じく何気なく答える。
しかし、彼女の返事には、ごくわずかに“期待”のような影が混ざっていた。
二人は並んで図書館へ向かう。
外は蒸し暑く、春の終わりと初夏の境界のような空気が漂っていた。
歩きながら、未唯は昨日の議論を思い返していた。真が言った、「好きは、相手の価値を認めること」。その言葉が、どうしても頭から離れない。
——価値承認。
——私は、誰かを価値として見たことがあっただろうか。
母はずっと働きづめで、未唯は幼い頃から“役に立つ子ども”であろうと努めてきた。
価値とは常に、自分の外側にあった。
母にとっての価値、教師にとっての価値、社会にとっての価値——
その基準を満たせるように生きてきた。
「自分が誰を価値として見るのか」
などと考えたことは、ほとんどなかった。
図書館の自動ドアが開き、涼しい空気が二人を包んだ。
真は迷いなくいつもの席へ向かう。未唯も自然にその横の椅子へ座る。
机の上にノートを広げると、真は少し息を整え、昨日の続きを切り出した。
「昨日、俺が言った“好き=価値承認”ってさ。
あれ、もう少しだけ説明していい?」
「うん。……まだ、よくわかってない」
未唯の声は静かだが、耳を傾ける姿勢は真剣だった。
「価値ってさ、判断じゃん。判断って、理由がある。
たとえば、“この本は名著だ”って思うとき、内容が優れてるとか、影響が大きいとか、理由があるよね」
「そうだね。それはわかる」
「じゃあ人を価値として見るときも、理由がないと判断にならない。
好きって感情が、その理由のカタマリなんじゃないかって思うんだ」
「理由……の、かたまり?」
未唯は少し首をかしげた。
彼女の言葉は常に精密だが、この問いの前では少し揺れを帯びている。
「うん。言語化できない価値の束、みたいな。
“この人のここがいい”って全部細かく言葉にする前に、感情として先にやってくる……そういう価値判断の原型」
「価値判断の“原型”…か」
未唯はノートを指先で軽く叩きながら、何度もその言葉を口の中で転がしていた。
感情が判断の前段階にあるという発想は、カント的には慎重に扱うべきものだ。
しかし完全に否定できるほど単純でもない。
「でも……価値判断って、普遍化できるかどうかが重要でしょ?
感情は……普遍化できない」
「そこがさ、俺たちのすれ違いなんだと思う」
真の声は穏やかだった。未唯に反論するのではなく、“差異そのもの”を示すような柔らかい言い方だった。
「俺は、未唯が言う“普遍性”の意味での価値判断じゃなくて……
もっと素朴な、“その人を大切に思う理由”って意味で言ったんだよ」
未唯は真の横顔を見た。
彼の表情はいつもより少しだけ大人びて見えた。
昨日までただ議論に熱中していた少年が、いまはひとつの結論に苦心する研究者のように見える。
——この人、ちゃんと考えているんだ。
気づけばその思いが胸に芽生えていた。
それは価値承認の最小単位のようなものだった。
「……でも、それを言われても困る」
未唯は少しだけ視線を落とした。
困る、という言葉の中には、拒絶でもなく無関心でもない、説明しづらい揺れが潜んでいる。
「困るって?」
「……理由が……わからないから。
私、誰かを“価値だ”と思ったことがあまりない。
ずっと、義務とか責任とか……そういう基準でしか考えられてこなかったから」
真は息を呑んだ。
未唯の言葉は、彼女自身の生活史の深層に触れている。
普段なら語らない種類のものだ。
「未唯……」
「だから……価値承認って言われても……
“どうやってそれを判断するのか”が、まだよくわからない。
好きって……判断なのか、感情なのか……どっちつかずで……」
未唯は言葉を途中で切り、息を整えた。
感情を語ること自体が、彼女には重労働のように見える。
「ただ……ひとつだけ……」
真はそっと顔を上げた。
「ひとつだけ……昨日からずっと気になってることがあるんだ」
「何?」
「あなたが……“価値として見ている”ものが、少しだけわかった気がする」
未唯は戸惑った。
自分が誰かを価値として見たことなど、ほとんどないと思っていたのだ。
「私は……何を価値として見てるの?」
真は、少し照れくさそうに笑った。
「俺が……昨日、一生懸命説明しようとしたとき……
未唯、ちゃんと聞いてくれた」
その瞬間、未唯の呼吸が一瞬止まる。
「それは……議論だから……」
「違うよ。議論なら、もっと“論理”だけを見るはずだろ?
でも未唯は……俺の“わからなさ”に耳を傾けてくれた」
言葉を飲み込むように、未唯は視線を机へ落とした。
「それって……価値の一部なんじゃないかって、俺は思う。
俺の話を、ちゃんと聞こうとしてくれる未唯の姿勢。
それ自体が……俺には、すごく大事に思えたんだ」
未唯は、胸の奥がじんわり熱くなるのを感じた。
それは恋と呼ぶにはあまりに淡く、しかし無関心とは呼べないほどには確かな変化だった。
「……そんなことで……?」
「そんなこと、なんかじゃない」
真ははっきりと言った。
「価値って、大きいものだけじゃない。
誰かの話をちゃんと聞く、とか。
真剣に向き合う、とか。
そういう小さな積み重ねが、誰かを価値として見る理由になるんじゃないかって、俺は思う」
未唯は何も言えなかった。
言葉が出ないというより、言葉にならない感覚が胸に留まっていた。
——私が……価値として見られている?
そんな実感を得たことは、一度もなかった。
その未知の感覚が、彼女の心に微かな震えを生んでいた。
「……価値承認って……そんなふうに、起きるの?」
「俺は、そう思う。
論理じゃなくて、生活の中の小さな場面で」
未唯は視界が少しだけにじむような感覚を覚えた。
彼女は顔を上げられなかった。
目を合わせれば、何かが変わってしまいそうだったから。
「……よく、わからない」
しかしその言葉は、拒絶ではなかった。
むしろ——「もっと知りたい」という感覚の裏返しのように真には聞こえた。
真は、小さく笑った。
「大丈夫。ゆっくりでいいよ。
俺だって、全部わかってるわけじゃない」
「……そんな言い方ずるい」
未唯はそうつぶやき、少しだけ肩を震わせた。
それが笑いなのか、緊張の緩みなのか、本人にもわからなかった。
だがその瞬間——未唯の中で、ごく微細な“価値の芽”が確かに動いた。
小さな、小さな揺れだった。
しかしその揺れは、これまで彼女の中には存在しなかった種類のものだった。
そして真は、その変化を見逃さなかった。




