ep. 4 沈黙の奥にある輪郭のない感情
図書館の閉館アナウンスが流れる頃、真はほとんどノートを進めることができていなかった。ページの半分が未唯の言葉の断片で埋まり、そのどれもが抽象的な形のまま、感情と論理の境界にとどまっている。
一方、未唯は淡々と勉強を続けていた。筆圧は弱いのに、文字は正確で揺らぎがない。まるで、自分の感情をはっきりと形取れない代わりに、言葉だけは整えていようとしているようだった。
未唯は小さく伸びをして、ノートパソコンを閉じた。
「もう閉館時間だね」
真は頷いた。
出口へ向かう廊下は、昼間よりも暗く静かだった。足音が二つ、並んで響く。
真は歩きながら、ずっと胸の奥に溜まっていた疑問を口にした。
「未唯ってさ……“好きが分からない”って言ってたよね」
「言ったね」
「それって……怖い?」
未唯は少しだけ歩みを止めた。
誰もいない廊下の非常灯が彼女の横顔を照らす。
その表情は、真が予想していたよりもずっと静かで、ずっと深かった。
「……怖いよ」
その答えは、とても弱かった。
だが、未唯が初めて“自覚的な弱さ”を見せた瞬間でもあった。
「“好き”って言われると……答えなきゃいけない気がしてた。期待に応えなきゃって。
でも、それが分からないから……返し方も分からないの」
「返し方?」
「うん。嬉しいっていう感情も……本当に自分がそう思ってるのか、確証が持てないんだよね」
真はゆっくり歩き出した。
「確証って……必要?」
「必要だよ。だって……」
未唯は言い淀んだ。
沈黙が落ちる。
真は続きを待った。
未唯は、歩きながらつぶやくように言った。
「わたし、間違えるのがすごく怖いの」
「間違える?」
「期待に応えようとして、気づいたら自分の気持ちから離れすぎて……戻れなくなるのが怖い」
真はその言葉を聞いて、胸の奥が少し痛くなった。
――未唯の“好きが分からない”は、欠落じゃない。
――むしろ、過剰な責任感の裏返しだ。
それを理解したとき、真の中にあった未唯への興味は、静かに別の形に変わり始めていた。
「未唯ってさ……もしかして、誰かに合わせて生きてきた?」
未唯は一瞬だけ視線を横に逸らした。
「……うん。たぶんね。
小さいころから、“お母さんが困らないようにしなさい”って言われて育ったから。
わたしの感情って……どこかで二番目だった気がする」
真はその言葉に、返す言葉を一瞬失った。
言うべきことは無限にあったが、
どれも“慰め”という形に変質しそうで、
どれも“分析”に近づきすぎる危険があった。
だが、感情は理性を待ってくれない。
「……俺はさ」
声が自然に漏れていた。
「未唯の感情、二番目だなんて思わないよ」
未唯は足を止めた。
真も止まる。
廊下に沈黙が満ちる。
ただ、夜の空調の音だけが二人を包む。
「……なんで、そんなこと言えるの?」
未唯の声は震えていなかった。
ただ、弱さを隠さなくなっただけだった。
「俺は、未唯の考え方、すごく面白いと思う。
分かろうとする姿勢も、感情を慎重に扱うところも。
その全部が……なんか、気になるんだよ」
「気になる、って……それは恋愛的な意味?」
真は一瞬だけ迷った。
だが、自分の胸の内に広がっている“割り込み”の正体を、嘘で覆えるほど強くない。
だから、はっきり言った。
「……うん。恋愛的な意味でも、そう思う」
未唯は、視線を真の胸元あたりに落とした。
顔を上げないところに、言葉にならない戸惑いがにじむ。
「わたし……そういうの、どう受け止めていいか分からないんだよ?」
「分からなくていいよ。
むしろ分からないって言ってくれたほうが……俺は、嬉しい」
「なんで?」
「だって、無理に分かったふりされるほうが……悲しいから」
未唯は小さく息を吸った。
それは驚きに近かった。
彼女の中で何かが、ほんの少し揺らいだ気配がした。
真の言葉に含まれる“期待しない優しさ”が、未唯の警戒を一瞬だけ緩ませたのかもしれない。
「……広曽木くんって、優しいね」
「優しくないよ」
「え?」
「未唯が分からないなら、一緒に考えたいだけ」
未唯の目が、真を見た。
その瞳は、さっきまでより深く、確かだった。
「……一緒に?」
「うん。好きって何か。
感情って何か。
恋愛って何か。
未唯が分からないなら、俺が考えたい」
未唯はしばらく黙り込んだ。
そして、ゆっくりと答えた。
「……分かった。
わたし、好きのこと……広曽木くんと考えてみたい」
その瞬間、真の胸の奥で、何かが静かに弾けた。
それは希望にも似ていたが、
同時に、危うさもはらんでいた。
未唯の“考えてみたい”は、告白の承諾ではない。
むしろ、断りの別の形式だとすら言える。
ここに恋は成立していない。
だが──
二人はもう、恋愛とは別の形で“関係”に入ってしまった。
未唯は言った。
「ただね……」
「うん?」
「わたし、恋愛のことだけじゃなくて……
“自分の義務”ってなんなのかも考えたいの」
真の心臓が、また一度跳ねた。
義務。
あの堅苦しい、苦手な言葉。
しかし未唯が言うと、まるでそれが“心を守るための境界線”のように聞こえる。
「広曽木くんは……好きのことを考えて。
わたしは、自分の義務のことを考える。
そういう関係……どうかな?」
真は一瞬だけ迷った。
だが、答えは決まっていた。
「……いい関係だと思うよ」
未唯は少し笑った。
本当にかすかに、でも確かに。
その笑みに、真の世界はさらに静かに“割り込まれた”。




