ep. 38 価値承認の言語化の困難
講義棟の出口を出た瞬間、夕方の冷えた風が二人の頬を撫でた。十月後半の東京の空は薄く曇っていて、街灯はまだ灯る気配を見せない。それでも、秋の気配がはっきりと感じられる風は、歩くたびに二人の会話の温度を奪っていくようだった。
広曽木真と大都乃未唯は、並ぶというよりも“同じ方向へ向かっているだけ”というように距離を保ち、ゆっくりとキャンパスの坂道を下っていった。講義終わりの学生たちが横から流れていく。気だるい帰宅モードの空気の中で、二人だけがいつも通りの緊張感をまとっている。
「――真くんはさ、“価値を認める”ってよく言うよね」
歩きながら、未唯がふと視線を落として言った。その声音には攻撃性はない。ただ、彼女自身が答えを探しているような、柔らかい迷いが含まれていた。
「うん。だって、それが“好き”の中核だと思うんだ。価値を認めなきゃ、興味も関心も、生まれないだろ?」
「でも……価値を認めるって、どう言語化するの?」
鋭い。だがその鋭さは、誰かを刺すためではなく、ただ正確さを求めるためのものだ。未唯が問いを立てるとき、そこには常に“自分でも答えを持ちたい”という切実さが宿っている。
「言語化……か」
真は息を吸うと、少し空を見た。曇りの切れ間に淡く光が滲む。
「難しいよな。価値ってさ、定義しようとすると抽象度が一気に上がる。でも、好きっていう現象はむしろ具体的なんだ」
「そう。そこがずっと引っかかってるの」
未唯は小さく頷き、指先でバッグの持ち手をきゅっと握った。
「“あなたに価値を認めています”なんて、日常会話で言えないし。言えたところで、それが何を意味しているのか、相手も自分もわからなくなる気がする」
「それは……確かに」
真は歩みを止めかけて、また歩いた。未唯が横目でその変化を見つめる。
「でもさ、人を好きになるときって、たぶん“価値を認める”以前に、“なぜかわからないけど惹かれる”瞬間があるんだと思うんだ。価値判断って、後からついてくるんじゃないか?」
「それは快楽側の話でしょ? 快楽は二人で整理した通り、“快の形式”は普遍で、“快の内容”は主観的。そこに価値承認が重なる。でも、価値承認って、判断能力の問題でしょ? 判断は言語に依存するよ?」
「……ああ、そこに引っかかってるのか」
真は少し嬉しそうに笑った。未唯がこの問いに本気で向き合っている証拠だった。
「判断は言語に依存する。でも、価値の認識そのものは言語化の前にある場合がある。たとえば――」
真は未唯の横顔を見た。細く整った輪郭。小柄でありながら存在の芯が強い。髪が頬にかかるたびに、本当に少しだけ、彼女の表情の温度が変わる。
「……たとえば?」
「未唯の顔を初めて見たとき、俺は言語化なんかしてなかった。ただ“いい”と思った。それって価値判断だけど、“いい”の内容は何も言語化されてなかった。価値承認は言語化できるけど、言語化の前に現れてる。少なくとも、俺はそう感じた」
「……顔、ね」
未唯の声が一瞬わずかに低くなった。嫌悪ではない。ただ、何かを押し隠すような反応。
「ごめん。いや、顔の話だけじゃなくて――」
「別に。気にしてないよ」
気にしていないときの声ではなかった。真は口を閉じた。彼女は顔を少しそむけ、歩みを早める。
(しまった……)
未唯が外見を褒められたとき、軽い戸惑いとわずかな距離を取る癖があると真は知っていた。理由は知らない。ただ、それが彼女の中で処理の難しい領域なのだろう、と理解していた。
数歩の沈黙。冷えた風が通り抜ける。
「……外見って、確かに価値を持つよ。美的価値。でも、それを“価値承認”って呼ぶと、どうしても……うまく理解できなくなる」
未唯の声は小さく、しかし震えてはいなかった。
「外見は……他者の判断が入り込みすぎる。私の価値が、他人の基準で測られている気がするから」
「――未唯」
「わかってるよ。私だけじゃない。みんなそうだし、外見の価値を完全に排除することはできない。でも、それを“好きの核”って言われると……なんか、息苦しい」
真の胸がきゅっと締めつけられた。彼女が息苦しさを言葉にすることは珍しい。それだけ、このテーマが彼女にとって“自分を語る言葉”に触れている証拠だった。
「……未唯、“好きの核”は外見じゃない。外見は核じゃない。むしろ周縁だ。俺が言いたかったのは……外見も価値承認に含まれる、っていう意味じゃなくて、“価値を認めるって行為は、言語化できる前に起こる”ってことなんだ」
「言語化できる前に?」
「そう。言葉になる前に、『なぜかいい』とか、『なんとなく良い気がする』とか、そういう微細な判断が積み重なって、それが後から“価値承認”という名前で呼ばれるんだと思う」
「……判断が、言葉より先にある」
「うん。しかも、その判断って曖昧で、主観的で、説明できない。だから未唯が“価値承認って言語化できるの?”って聞くのは正しい。でも……“言語化できないから価値承認じゃない”とも言えない」
未唯は歩みを緩めた。真の言葉を噛みしめているような表情だった。
「……じゃあ真くん。価値承認って、どうやってわかるの?」
「わからない。でも、わからないからこそ価値なんじゃないか。“わからなさ”を抱え込めるのって、ある意味で価値への敬意だと思うんだ」
「敬意……」
未唯が小さく呟いた。その目は少しだけ柔らかかった。
「そう。“あなたの良さは説明できないけど、確かにそこにある”っていう状態。それこそが、価値承認の根っこにあるんじゃないか」
未唯はしばらく無言だった。沈黙が二人の間に落ちる。しかしその沈黙は以前のような冷たいものではなく、どこか暖かい“考えるための空白”に変わっていた。
やがて彼女は、ふっと息を吐いた。
「……真くんは、言葉にするのが上手だね」
「そうか?」
「うん。私はずっと……言語化できないものが怖かった。価値の判断も、感情も。でも……真くんの話を聞いてると、“言語化できない価値”があってもいいのかな、って思える」
真は心臓が一瞬だけ跳ねるのを感じた。それは期待でもなく、興奮でもなく、ただ“理解が近づいた”と感じたときの静かな快楽だった。
未唯は続けた。
「……価値承認。私はまだ、よくわからない。でも、“わからなさを抱えること”が価値そのものだっていう考え方は……少しだけ、腑に落ちる」
「未唯」
「ねえ真くん。もし、価値承認を言語化できないとしたら……真くんは、どうやって人を好きになるの?」
その質問は、未唯が初めて“好き”を自分の問いとして扱い始めた瞬間だった。真はゆっくりと息を吐き、未唯の横顔を見つめる。
「……言語化できない部分ごと、その人を認める。理由が曖昧でも、説明できなくても、“そういうものだ”と受け入れる。それが価値承認だと思う」
未唯は歩みを止め、ほんの少しだけ笑った。
「……そういう価値の見方、嫌いじゃないよ」
その笑顔はわずかだったが、真には十分すぎた。
言葉にできない価値を、少しだけ未唯が受け容れた瞬間だった。




