ep. 36 相手の生活史の価値
「――ねぇ、真くんはさ。人の“価値”って、どこに宿ると思ってるの?」
授業棟の裏にある細い歩道を歩いているとき、未唯が急に立ち止まって、そんなことを言った。
秋の夕方の光が差し込んで、未唯の横顔を淡く照らしていた。普段ならこちらを見ない彼女が、珍しく真っ直ぐに僕を見る。
「価値か……いや、たぶん一つじゃないと思ってるよ。外見とか性格とか、才能とか、いろいろ混じってるというか」
「そういう“要素の足し算”みたいに考えてるの?」
責めるような声ではなく、ただ確認するような落ち着いた口調だった。
「いや……足し算っていうのも違うかな。ただ、人の価値って、その人の“生活史”に結局たどり着く気がしてる」
「生活史?」
未唯が目を瞬く。僕は小さく息を吸って、話を続けた。
「その人がどんな環境で育って、どんなことを大事にして、どんな風に誰かに優しくされたか……そういう積み重ね全部が“価値”を形づくるんじゃないかと思うんだ。少なくとも僕はそう見てる」
未唯は足を止め、鞄の紐を指でたどるように握った。
彼女がこうして立ち止まるときは、心のどこかに引っかかるものがある証拠だ。
「……生活史、か。そんな視点で人を見るんだね」
「未唯だって、そうじゃない?」
そう言った瞬間、未唯の肩が微かに揺れた。
「私……?」
「うん。君の価値観とか、気遣いの仕方とか、表情の変わり方とか……全部、生きてきた道から来てると思う」
未唯は視線をそらし、歩道の端の落ち葉を踏んだ。乾いた音がした。
「……それ、勝手に分析してるだけじゃない?」
少しだけ刺のある言い方。でもその刺は、怒りというより、自分の過去を見透かされたような不安だった。
「分析じゃなくて、観察かな。君が自分を大事にしないのは、たぶん昔から“自分より先にやるべきことがある”って思い続けてきた癖が残ってるからじゃないかって……ぼんやり思ってるんだ」
未唯は呼吸を一拍置いて、ゆっくりと口を開いた。
「……真くんって、そういうふうに人を見るんだね」
「悪いこと?」
「悪くはないよ。ちょっと、怖いだけ」
怖い――その言葉の響きに、僕の胸がわずかに締まった。
けれどすぐ、未唯が付け足すように言った。
「……でも、少し嬉しいかもしれない」
風が吹き、落ち葉が舞う。未唯の黒髪が揺れ、光を受けてきらりと輝いた。
「生活史の価値ってね……私、よく分かる気がする」
未唯は歩き出し、僕も横に並ぶ。
「私の母、すごく働き者でね。カントを初めて読んだとき、“義務は尊厳の根源だ”って言葉がまっすぐ心に入ってきたの。ああ、これが母なんだって思った。母は、生活のためというより……たぶん自律を守るために働いてた気がする」
その声はどこか懐かしさを含んでいた。
未唯が母親の話をするのは、実はかなり珍しい。
「だから、生活史っていう言葉、ちょっと胸が痛くなるけど……でも、正しいんだと思う」
僕は静かに頷いた。
「人の価値って、瞬間では測れないよね。たとえ君のように普段は無口でも、そこに至るまでの道には、きっと膨大な出来事がある」
「……真くんは、私の生活史を知ってるわけじゃないでしょう?」
「知らないよ。でも、知らないからこそ価値だと思ってる」
未唯は立ち止まってこちらを見る。驚いたような表情でもなく、怒っているわけでもなく――ただ、理解しようとしていた。
「知らないから、価値……?」
「うん。全部知る必要なんてないんだと思う。むしろ、知らない部分があるからこそ尊重できる。君がどうしてその選択をしたのか、どうしてその表情になるのか……分からないからこそ、勝手に軽んじることができない」
未唯は、ほんのわずかに目を見開いた。
「……そんな考え方、聞いたことない」
「人それぞれの生活史があるってことは、それぞれに“価値の由来”があるってことじゃん。例えば、君が静かなのは、生まれつきとか性格だけじゃなくて、幼い頃の経験とか、母親との関係とか、そういうもの全部の影響だと思う」
未唯は黙って僕の言葉を聞いていた。
「未唯の行動が優しいのも、日曜日の図書館でいつも同じ席を取るのも、手帳に細かなメモを残しているのも……その全部が君の生活史の痕跡だよ。それを知っていくのは、僕にとっては“価値への接近”なんだ」
未唯は歩道の端にしゃがみ、小さな黄色い葉を拾った。
葉脈が細かく走っている。未唯はしばらくそれを見つめた。
「……真くんって、本当に変わってるね」
「よく言われるよ」
「こういう話をしたの、初めてかも」
未唯は葉をそっと手帳に挟み、鞄に戻した。
「ねぇ、生活史の価値ってさ」
「うん?」
「もし、相手が自分の生活史を話したくなかった場合はどうするの?」
「話さなくていいと思うよ」
未唯は意外そうに眉を上げた。
「いいの?」
「うん。価値って“話してもらうこと”じゃなくて、“見える範囲から丁寧に読み取ろうとする姿勢”だと思うから」
未唯は一瞬だけ笑いそうになって、でも結局笑わなかった。
「……そんなの、私にとってはすごくありがたい考え方だよ」
風が強くなり、落ち葉が一斉に舞い上がった。
未唯は両手で髪を押さえながら、僕に向けて小さく言う。
「真くんは、私の生活史を価値として見てくれるの……?」
「うん。もちろん」
未唯はしばらく黙り、歩道を一歩進んだ。
そして――
振り返ったとき、その目にはこれまで見たことのない色が宿っていた。
「……ありがとう。まだ“好き”は分からないけど、こういうふうに見てもらえるのは、すごく……嬉しいよ」
それは、彼女が初めて僕に向けた“揺れ”だった。




