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好きがわからない君へ告白したら、カント倫理学でフラれました。 ――それでも僕たちは、自律から始まる恋を続けていく  作者: 目田 不識(めた・ふしき)
第3章 価値承認とは何か

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ep. 36 相手の生活史の価値

 「――ねぇ、真くんはさ。人の“価値”って、どこに宿ると思ってるの?」


 授業棟の裏にある細い歩道を歩いているとき、未唯が急に立ち止まって、そんなことを言った。

 秋の夕方の光が差し込んで、未唯の横顔を淡く照らしていた。普段ならこちらを見ない彼女が、珍しく真っ直ぐに僕を見る。


 「価値か……いや、たぶん一つじゃないと思ってるよ。外見とか性格とか、才能とか、いろいろ混じってるというか」


 「そういう“要素の足し算”みたいに考えてるの?」


 責めるような声ではなく、ただ確認するような落ち着いた口調だった。


 「いや……足し算っていうのも違うかな。ただ、人の価値って、その人の“生活史”に結局たどり着く気がしてる」


 「生活史?」


 未唯が目を瞬く。僕は小さく息を吸って、話を続けた。


 「その人がどんな環境で育って、どんなことを大事にして、どんな風に誰かに優しくされたか……そういう積み重ね全部が“価値”を形づくるんじゃないかと思うんだ。少なくとも僕はそう見てる」


 未唯は足を止め、鞄の紐を指でたどるように握った。

 彼女がこうして立ち止まるときは、心のどこかに引っかかるものがある証拠だ。


 「……生活史、か。そんな視点で人を見るんだね」


 「未唯だって、そうじゃない?」


 そう言った瞬間、未唯の肩が微かに揺れた。


 「私……?」


 「うん。君の価値観とか、気遣いの仕方とか、表情の変わり方とか……全部、生きてきた道から来てると思う」


 未唯は視線をそらし、歩道の端の落ち葉を踏んだ。乾いた音がした。


 「……それ、勝手に分析してるだけじゃない?」


 少しだけ刺のある言い方。でもその刺は、怒りというより、自分の過去を見透かされたような不安だった。


 「分析じゃなくて、観察かな。君が自分を大事にしないのは、たぶん昔から“自分より先にやるべきことがある”って思い続けてきた癖が残ってるからじゃないかって……ぼんやり思ってるんだ」


 未唯は呼吸を一拍置いて、ゆっくりと口を開いた。


 「……真くんって、そういうふうに人を見るんだね」


 「悪いこと?」


 「悪くはないよ。ちょっと、怖いだけ」


 怖い――その言葉の響きに、僕の胸がわずかに締まった。

 けれどすぐ、未唯が付け足すように言った。


 「……でも、少し嬉しいかもしれない」


 風が吹き、落ち葉が舞う。未唯の黒髪が揺れ、光を受けてきらりと輝いた。


 「生活史の価値ってね……私、よく分かる気がする」


 未唯は歩き出し、僕も横に並ぶ。


 「私の母、すごく働き者でね。カントを初めて読んだとき、“義務は尊厳の根源だ”って言葉がまっすぐ心に入ってきたの。ああ、これが母なんだって思った。母は、生活のためというより……たぶん自律を守るために働いてた気がする」


 その声はどこか懐かしさを含んでいた。

 未唯が母親の話をするのは、実はかなり珍しい。


 「だから、生活史っていう言葉、ちょっと胸が痛くなるけど……でも、正しいんだと思う」


 僕は静かに頷いた。


 「人の価値って、瞬間では測れないよね。たとえ君のように普段は無口でも、そこに至るまでの道には、きっと膨大な出来事がある」


 「……真くんは、私の生活史を知ってるわけじゃないでしょう?」


 「知らないよ。でも、知らないからこそ価値だと思ってる」


 未唯は立ち止まってこちらを見る。驚いたような表情でもなく、怒っているわけでもなく――ただ、理解しようとしていた。


 「知らないから、価値……?」


 「うん。全部知る必要なんてないんだと思う。むしろ、知らない部分があるからこそ尊重できる。君がどうしてその選択をしたのか、どうしてその表情になるのか……分からないからこそ、勝手に軽んじることができない」


 未唯は、ほんのわずかに目を見開いた。


 「……そんな考え方、聞いたことない」


 「人それぞれの生活史があるってことは、それぞれに“価値の由来”があるってことじゃん。例えば、君が静かなのは、生まれつきとか性格だけじゃなくて、幼い頃の経験とか、母親との関係とか、そういうもの全部の影響だと思う」


 未唯は黙って僕の言葉を聞いていた。


 「未唯の行動が優しいのも、日曜日の図書館でいつも同じ席を取るのも、手帳に細かなメモを残しているのも……その全部が君の生活史の痕跡だよ。それを知っていくのは、僕にとっては“価値への接近”なんだ」


 未唯は歩道の端にしゃがみ、小さな黄色い葉を拾った。

 葉脈が細かく走っている。未唯はしばらくそれを見つめた。


 「……真くんって、本当に変わってるね」


 「よく言われるよ」


 「こういう話をしたの、初めてかも」


 未唯は葉をそっと手帳に挟み、鞄に戻した。


 「ねぇ、生活史の価値ってさ」


 「うん?」


 「もし、相手が自分の生活史を話したくなかった場合はどうするの?」


 「話さなくていいと思うよ」


 未唯は意外そうに眉を上げた。


 「いいの?」


 「うん。価値って“話してもらうこと”じゃなくて、“見える範囲から丁寧に読み取ろうとする姿勢”だと思うから」


 未唯は一瞬だけ笑いそうになって、でも結局笑わなかった。


 「……そんなの、私にとってはすごくありがたい考え方だよ」


 風が強くなり、落ち葉が一斉に舞い上がった。

 未唯は両手で髪を押さえながら、僕に向けて小さく言う。


 「真くんは、私の生活史を価値として見てくれるの……?」


 「うん。もちろん」


 未唯はしばらく黙り、歩道を一歩進んだ。


 そして――

 振り返ったとき、その目にはこれまで見たことのない色が宿っていた。


 「……ありがとう。まだ“好き”は分からないけど、こういうふうに見てもらえるのは、すごく……嬉しいよ」


 それは、彼女が初めて僕に向けた“揺れ”だった。

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