ep. 35 好きは価値承認か?
あの午後の図書館は、春先のうす曇りの空気がそのまま流れ込んだように、静かで湿り気を帯びていた。窓辺の席には誰もいない。柔らかな明かりが真と未唯の机の上に落ち、紙の白さに淡い輪をつくっていた。二人は机を挟んで向かい合いながら、しかし同じ一点を見つめているかのようだった。互いの視線はときどき重なり、また逸れ、そしてまた戻ってくる。そんな往復を繰り返しながら、話題だけは少しずつ核心へ進んでいた。
「じゃあさ」と真が切り出す。「好きっていうのは……結局、その人に価値を認めることなんじゃないかと思うんだよね」
言った瞬間、自分で言いながらどこか気恥ずかしさを覚えた。まだ大学一年生の春、告白して振られた記憶は生々しく、その傷跡はいまだに彼の言動の端々に顔を出す。たとえば今のように、未唯と“好き”の話題をするとき。彼は無意識に慎重になり、言葉の重さを測りながら、できる限り曖昧さを排した形で語ろうとする。だがそれでも、内心では不安が渦巻いていた。
未唯は、少し首をかしげた。
「価値を、認める……?」
「そう。つまり――たとえば相手の考え方とか、行動とか、そういうものを“いい”って判断する。それが好きに繋がるんじゃないかと思うんだ。単なる快とは違って、価値の承認には理由がある気がしてさ」
未唯は手元のノートに視線を落とし、何かを書くでもなく、ただ表紙を親指でなぞっていた。その仕草は、言葉より先に思考が動き出している証拠だ。彼女はいつもこうして、少しだけ沈黙を挟んでから反論を組み立てる。
「真くんの言ってることは、わかる気もする。でも……価値を認めるって、それは判断だよね?」
「判断、か。まぁ、そうだと思うけど」
「判断って、感情とは違うものじゃない? 好きって、もっと情動的な現象じゃないの?」
彼女の目は真剣だった。哲学の議論をしているときの未唯は、人の目をまっすぐ見る。まるで相手の言葉の奥まで深く射抜くような光を帯びる。その光を向けられた真は、嬉しさと気恥ずかしさの間で揺れた。自分だけが見つめられているような錯覚と、彼女が本気で考えてくれるという事実。その二つが、胸の奥に柔らかな熱として残る。
「じゃあ、好きは価値判断じゃないの?」と真。
「うん。少なくとも“好きが価値判断そのもの”って言い切るのは、ちょっと強すぎる気がする」
未唯は言葉を選びながら続けた。
「価値判断って、普遍化できるかどうかが大事だよね。たとえば“正直であることは良い”とか“他人を傷つけてはいけない”とか。そういうのは、状況を超えて妥当する判断。でも……好きって、普遍化できないよ」
「……確かに。誰にでも好きって思うわけじゃないし」
「そう。感情は個別的で、その時の状態にも左右される。だから、好きがそのまま“価値承認”と同じだと言われると……ちょっと違うかもしれないって思う」
言われてみれば、真も自分の言葉が急ぎすぎたことに気づく。告白したときの自分も、未唯の価値を正確に理解していたわけではない。ただ、彼女と話していると、自分が少しマシな人間になった気がして、それが“彼女の価値”だと思い込んでいたのかもしれない。
「でもさ」と真は言った。「それでも、好きになる相手って、何らかの“良いところ”が見えてるからだと思うんだよ。完全に価値判断ではないとしても、価値に関係してるのは確かじゃない?」
「それは……うん、そうだと思う」
未唯はうなずいた。ただ、そのうなずきは同意というより、慎重に“部分肯定”をしているようだった。
「好きの中に“価値承認”の要素がある、っていうのはわかる。でも、好き=価値承認、ではない……って感じかな」
「むずかしいな」
「むずかしいよ。真くんが考えてる“好き”って、たぶん多層的だと思うの。でも、その中の一部分に“価値判断”が含まれているだけ、というか……」
その言葉を聞いたとき、真は自分の未熟さが露わになったような気がした。だが、それは嫌な痛みではなかった。未唯と言葉を交わしていると、自分の視界が広がっていく実感がある。理解できなかったことがわずかに輪郭を帯び、未知だった部分が照らされていく。未唯と話すだけで、世界が少しだけましになる――それは、彼女に対する快と敬意が入り混じった感情であり、彼自身の“価値承認”に似たものだった。
「じゃあさ、未唯はどう思う? 好きってなんだと思う?」
真の問いに、未唯は机の上に置いたペンを手に取り、また置いた。小さな動作だが、その間に彼女は自分の中の言語を探している。
「……まだ、わからない。でも」
「でも?」
「好きって、感情だけじゃないと思うの。判断と感情のあいだにある、もっと複雑な何か。評価もあるし、快もあるし、関心の偏りもあるし……」
「多義的、ってこと?」
「うん、多義的。でもその多義性の中に、“価値を見つける瞬間”が確かにある。だから真くんの言ってることもわかるよ。ただし、それが全部だとは思えないってだけ」
真は少しだけ笑った。
「……なんか、未唯と話すと全部が修正される気がする」
未唯はその言い方に少し顔を赤らめた。
「修正って……そんな大げさな」
「いや、本当に。俺は単純に“好き=価値を認めること”だと思ってた。でも、そんな単純なものじゃないってわかっただけで、ちょっと気分がいい」
「気分がいい?」
「うん。なんか、前に進んでる感じ」
その言葉を聞いたとき、未唯の表情が一瞬揺れた。揺れたというより、かすかな光が差したようだった。彼女自身、感情の言語化が苦手で、自分が何を感じているのかを丁寧に確かめる習慣がある。しかし今の真の言葉は、その確認の手間を一瞬省略させるほどにストレートで、胸の奥に直接触れたのだ。
「……そっか。前に進めてるなら、よかった」
未唯は俯き気味に言った。声は小さいが、確かに柔らかかった。
真はふと思う。“価値承認”という言葉を語っていた自分が、いまこの瞬間、未唯の中の何かの価値を承認しているのではないかと。未唯の慎重さ、誠実さ、ことばを探す時間、その沈黙、それらすべてが今の会話の中で彼には光って見えていた。
それらを「良い」と感じたとき、それは価値の承認だった。だが、同時にそれは感情でもあり、注意の偏りでもあり、美的な快でさえあった。
つまり――未唯が言ったとおり、好きは多義的だった。
「ねぇ、未唯」
「うん?」
「もし……もしもだよ? 好きの中に“価値承認”があるとしたら、それって――どの価値だと思う?」
未唯は少しだけ考えて、静かに答えた。
「その人の、生活史じゃないかな」
真はその言葉を飲み込むのに少し時間がかかった。価値承認は単なる性格評価ではなく、その人が歩んできた道全体に対する“理解”なのだと。未唯自身の生活史――貧しさ、母との生活、義務に縛られて生きてきた過去――それらが彼女の価値判断の基準を作っていた。
真は、彼女がそう言う理由を、言葉の裏から理解し始めていた。そして、胸の奥で何かが静かに動いた。
未唯の生活史そのものが、彼にとって価値を持ち始めていた。
その小さな揺れは、まだ彼女には届かない。だが、確かに“好きの構造”の一角が静かに完成しつつあった。




