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好きがわからない君へ告白したら、カント倫理学でフラれました。 ――それでも僕たちは、自律から始まる恋を続けていく  作者: 目田 不識(めた・ふしき)
第3章 価値承認とは何か

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ep. 34 価値判断の個別性

 翌日の午後、哲学科の図書館はいつもより静かだった。期末レポートの締切が近いとはいえ、広い閲覧室の奥まった場所には、真と未唯の声だけが小さく残っていた。

 窓際の机には、カントの『判断力批判』と、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』、そして真の専門である十九世紀哲学史の資料が無造作に重なっている。彼らの議論は、いつの間にか二人専用の“日課”のようになっていた。


「昨日、僕が“好き=価値承認”だって言ったじゃん」

 真がペンを回しながら切り出す。

「どうしてそう言えるのか、もうちょっと説明したいんだよね」


 未唯は、ページの角を指先でそっと押さえたまま、静かに頷く。

「うん。聞かせてほしい。ただ……私は“価値”って、もっと判断的なものだと思ってる。感情と価値が重なるのは分かるけど、価値判断は普遍化可能であるべきで、その人だけの“心地よさ”とは違う気がするの」


 真は思わず苦笑した。

「出た、カントだ……。いや、いいんだけどさ。未唯の言う価値って、判断の構造そのものだよね。でも、僕が言う“価値”はもう少し個別的なやつなんだよ」


「個別的?」

「そう。例えば、僕は未唯の小さな所作――カバンの持ち方とか、歩くときのリズムとか、ノートに書く字の癖とか――そういうの全部に価値を感じてるわけ」


 言われた未唯は、反射的に目を逸らした。

「……そういうのは、価値というより、単なる好みじゃない?」


「いや、そこなんだよ」

 真は前のめりになって、言葉を探すように続けた。

「好みは主観の問題。でも、僕にとってその“主観”自体が、無視できない価値判断につながってる。つまり――“普遍化できない価値判断”ってやつ」


 未唯は眉を寄せる。

「普遍化できないのに価値と呼べるの?」


「呼べると思うんだ。個別的な価値判断って、普遍化可能性から外れていても、人の行動にすごく強く影響する。例えば、自分の経験から生まれた判断とか。……そういうのは、未唯が言う意味での『普遍法則』ではない。でも、その人にとっては確実に価値なんだよ」


 未唯はしばらく黙った。

 真の言う「個別的な価値判断」が、倫理学的には曖昧でも、感情の説明としては手放せないことは理解できる。だが、それはカント的な「価値」とは別物に思える。


「……だったら、それって“価値”じゃなくて“評価”なんじゃない?」

 未唯が問う。

「価値判断は、感情と切り離されて成立する。普遍化可能性が前提で、理性による承認が必要。真の言う“好きな部分”は、たぶん……感情に付随する意味づけの方に近い」


「意味づけ……か」

 真は顎に手を当てた。

「でもさ、意味づけって人によって違うじゃん。同じ行為や同じ表情を見ても、僕には特別に見えて、他の人にはそう見えない。これって、個別的価値判断そのものじゃない?」


「価値は普遍的であるべきだと思う。個別性の説明にはなるけど、価値とは違う」

 未唯は即答した。そこに迷いはない。


 しかし、真は引かない。むしろ、その確固たる信念を正面から受け止めたくなった。

「でも、人を好きになるとき、普遍的な価値判断なんてほとんど役に立たないよ。未唯は“快だけでは言えない”って言ったけど、価値判断も同じで、普遍的に正しいから人を好きになるわけじゃない。むしろ、個別的な評価の積み重ねのほうが大きいんだよ」


「……それは否定しない。でも、それは道徳的価値じゃない」

「僕は道徳的価値の話だけをしてるんじゃないよ。好きの構造の話なんだ」


 未唯はペンを置いた。

 普段なら、真のやや強引な論理展開には緩やかに反論を続けるのだが、今日はどこか言葉が追いつかないようだった。


「真……少しだけ、分かるかもしれない」

 ぽつりと、未唯が呟く。


「え?」

「私だって、人の価値を“普遍的な価値”だけで判断してるわけじゃないよ。例えば……」

 未唯は少し呼吸を整え、机の木目を見つめながら言った。

「真が、授業が終わったあと、誰が見ていなくても教室の窓を閉めていたり、レジュメの残部をきちんと揃えて置いていたりするの……そういう行為には、私、普遍化可能性とは別に、その人の“生活史の痕跡”を感じるの」


 真は息を呑んだ。

「……生活史?」


「うん。何かの価値判断に基づいてやっているのではなく、真自身の生き方や考え方がにじみ出てる気がして。そういうのは……確かに個別的な価値判断かもしれない」


 言いながら、未唯は恥ずかしそうに頬を赤くした。

 彼女にしては珍しい“感情の表出”だった。


 真は、しばらく言葉を失った。

 未唯が自分の行動を見ていたことも驚きだが、何より、彼女がそれを“価値”と結びつけたことが胸を打った。


「じゃあ、未唯も、僕の行動に……価値を感じてくれてるってこと?」

 問いかけながら、真はどこか期待を含んだ声になっていた。


 未唯は言葉を慎重に選んだ。

「“価値”というより……その行為を見たとき、真という人を少し理解できた気がした。普遍的な価値判断ではなくて、個別的な“理解”の方だと思う」


「でも、それって……僕を“良い”って判断したってことじゃないの?」

「ううん、違うよ」

 未唯は首を横に振った。

「理解しただけ。でも……」

 続く言葉を探すように、視線が泳ぐ。

「理解したことが、ちょっとだけ……心地よかった」


 その瞬間、真の胸が熱くなる。

 “心地よい”――未唯のように快に慎重な人が、その語を使ったという事実が、彼の心を深く揺さぶった。


「未唯、それって――」

「でも、好きとかじゃない!」

 未唯は慌てて遮った。

「ただ……あなたの言う“個別的な価値判断”って、こういうことなのかなと思って……」


 真はゆっくりと笑った。

 彼女の目線の揺れ、言い淀み、微かな頬の赤さ――どれもが、未唯の言う“個別的判断”の証そのものに見えた。


「うん、そういうことだよ。未唯が言ってくれたそれは……僕にとって、すごく大事な価値だ」


 未唯は俯いたまま、小さく息を吐いた。

 真の言葉が、胸の奥をどこか温かく満たしていく。それが快なのか、理解の安堵なのか、それとも別の何かの予兆なのかは、まだ分からない。ただ、先ほどの感覚が“消えない”ということだけは確かだった。


 二人のあいだに落ちる沈黙は、静かでありながら、どこか柔らかい。

 未唯の中で、価値判断の“個別性”が初めて輪郭を持ち始めていた。

 そして真は、その小さな変化に気づいていた。


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