ep. 33 価値判断の普遍性
夕方の大学図書館は、昼間のざわめきが嘘のように静まり返っていた。ちょうど窓の外から西日が差しこみ、閲覧席の机の表面が柔らかく照らされている。広曽木真は、借りてきたカントの『実践理性批判』と、ノートパソコンの画面とを交互に見ながら、ため息をひとつ吐いた。
「価値承認……価値判断……好き……」
口に出してみると、全部が似ているようで、全部が少しずつ違っているように感じられた。未唯と議論を重ねるほど、曖昧だったものが輪郭を持ってくる感覚があるのに、それでもなお、本質に触れ切れないもどかしさが残る。
そこへ、教科書を抱えた未唯が静かにやってきた。彼女は学内でも見慣れた地味なパーカー姿だったが、どこか凛とした雰囲気がある。カント倫理学を本気で学ぶ人間だけが持つ、硬質な気配。それを真はどこか誇らしくも感じていた。
「ごめん、待った?」
「いや、今来たところ」
すると未唯は、机の向かい側に腰を下ろし、すぐに話を切り出してきた。
「真くん。前の話の続きなんだけど……価値って、個人が勝手に決めるものじゃないよ?」
「そう、それ。俺も考えてた。価値ってさ、普遍性があるんだよな?」
未唯は小さく頷いた。
「そう。カントは“価値判断は主観的であっても、普遍化の可能性を持っている”って考えるの。つまり、誰かが何かを良いと言うとき、それは“他の誰もが同じ状況でそう言うべきだ”っていう主張が、暗黙に含まれているの」
言い切ったその表情には、確信に近いものがあった。
真は椅子にもたれ、腕を組んでから問い返す。
「じゃあ、俺が“未唯はすごい”とか、“未唯の解釈は鋭い”とか思うのも、普遍化可能だってこと?」
「うん。そう思う根拠が、他の人にも共有されうるならね」
未唯は淡々と言ったが、その視線はどこか遠くを見るようでもあった。
「たとえば……未唯が努力家だから、とか?」
「そう。努力は、他の人が見ても理由になるでしょう? それが普遍化の可能性。“あなたの判断は、あなたの勝手じゃないよね?”って意味」
なるほど、と真はうなった。
確かに、自分が未唯の価値を感じるのは、主観的な好みだけが理由ではない。彼女の勉強量、誠実さ、少し不器用なほどの一生懸命さ――それらは、誰かが見ても価値を認めるだろう性質だ。だからこそ、単なる恋愛感情ではなく、彼女そのものへの“価値承認”が自分の中で起こっているのかもしれない。
「……普遍性か。つまり俺が未唯の価値を認めるのは、ただの感情じゃなくて、理由があるってことか」
「理由がなければ価値判断じゃないよ。気分と価値は違う。価値判断は“理由づけ可能性”が必要なの」
未唯は淡々としていたが、その声音はどこか柔らかかった。
「でも真くんが私を好きって言うときは……そこに快楽とか関心の偏りが混ざるよね?」
「まぁ、そりゃ混ざるな」
「だから、好きは“価値判断+感情”なの。価値判断だけじゃ好きとは言えないし、感情だけでも好きとは言えない」
その言葉に真はハッとした。好きという現象が複雑なのは、そうした要素の重なりがあるからだと、ようやく腑に落ちてきた。
「じゃあさ、価値判断は普遍的になりうるのに、好きは普遍的にはならないんだな」
「そう。好きは主観も入るからね。でも価値判断は、普遍化できる部分がある」
その違いを意識した瞬間、真の中で、未唯への感情が新しい形をとりはじめた。
ただの“未唯が好き”ではなく、
“未唯という人間は、理由づけ可能な価値を持つ”
という、もう少し固い構造に変わっていく。
「未唯ってさ、そういう話をするとき、いつも落ち着いてるよな」
「落ち着いてるわけじゃないよ。ただ……判断するときは理由を考えたいだけ」
未唯は少し目を伏せた。その表情にはほんのわずかに影があった。
「私ね、昔からそれで悩んでたの。“なんでそれが良いと思うの?”って聞かれると、答えられなかった。だから、価値判断の“理由づけ”ってすごく大事だと思ってるの」
普段は滅多に語らない未唯の内面が、不意にこぼれた気がした。
「……未唯。お前、それ、結構しんどかったろ」
「うん。でもカントを学んで、整理できるようになったの。“価値は理由があっていいんだ”って」
その声はほんの少しだけ震えていたが、確かな強さもあった。
「ああ……だからカントが救いなんだな」
真は思わず口にしていた。
未唯は驚いたように目を瞬かせ、それからゆっくり頷いた。
「たぶんね。カントは、私に“理由づけていい”って教えてくれた。曖昧なままでもいいけど、でも、筋道を考えることはできるって」
真は胸が熱くなるのを覚えた。
自分が未唯に惹かれたのは、外見でもないし、近くにいたからでもない。
彼女の思考の強さ、誠実さ、筋道に対する固有の感受性――そういう価値を自分が認めたからだ。
そして、それは確かに普遍化可能な価値判断だった。
「……未唯。その価値ってさ、俺だけじゃなくて、誰が見ても認めるよ」
「そうかな」
「俺はそう思う。お前の誠実さは……普遍的に価値がある」
未唯は、少しだけ呼吸を乱した。図書館の静けさの中で、そのわずかな変化が真にははっきりと見えた。
未唯は視線をそらし、小さく呟く。
「真くんがそう言うなら……少しは、そうなのかもしれない」
その横顔は、ほんのわずかに紅潮していた。
価値の普遍性を語る章で、真が無意識に示した価値承認。
それは、未唯にとっても予想外の“揺れ”になっていた。
普遍的な価値判断が、
少しだけ、未唯自身の胸を温めたのだ。
そのわずかな温度に、二人の距離が、またほんの少しだけ縮まった。




