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好きがわからない君へ告白したら、カント倫理学でフラれました。 ――それでも僕たちは、自律から始まる恋を続けていく  作者: 目田 不識(めた・ふしき)
第3章 価値承認とは何か

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ep. 32 未唯:価値は判断であって感情ではない

 翌日の午後、講義を終えた僕は図書館の窓際でノートを開きながら、昨日の議論をどう続けるかを考えていた。陽が傾きはじめて、床に落ちる影が少しずつ伸びていく。そこに未唯がやってきて、僕の向かいの席に鞄をそっと置いた。


 「昨日の続き、してもいい?」


 その声は、いつもより少しだけ柔らかかった。昨日の議論が、彼女の中でも何かを残したのかもしれない。僕はペンを置き、姿勢を正す。


 「もちろん。僕が言った“好き=価値承認”の話、あれ気になった?」


 未唯は椅子に腰をおろし、しばらく指先で机をなぞるようにしてから、静かに言葉を放った。


 「……価値って、感情じゃないんだよ。そこをまず整理しないと、話がズレちゃうと思ったから」


 「感情じゃない?」


 「うん。価値は判断。つまり、考えること。対象をどう見るべきか、どう扱うべきかっていう“基準”を立てる行為。それは、感情の流れにそのまま引きずられることとは違うの」


 未唯は淡々としているようで、じつは慎重に言葉を選んでいるのが分かった。彼女がこういう調子の時は、頭の中でカントの条文が走っている証拠だ。


 「好きって感情でしょう? だから、価値判断とは別。好きはただ“起こる”けど、価値は“考える”。ここを一緒にすると、全部ゴチャゴチャになるよ」


 「なるほど……でも僕は、好きになるってことは、相手に“価値がある”って感じてるって意味じゃない?」


 「それは“感じてる”でしょ。価値を“判断してる”んじゃなくて。“感じる”は経験、“判断”は思考」


 言われてみれば、昨日の僕の議論はその区別を曖昧にしていた。好きは確かに主観的快だ。一方で価値判断は、理性が働く領域だ。


 未唯は小さく息をつき、続ける。


 「たとえばね、私は真くんを“頭がいいと思う”って判断できる。これは価値判断。でも、それがそのまま“好き”になるとは限らない」


 「……たしかに」


 「逆に、何か説明できないけれど、真くんと話すと落ち着く、とか。そういう“快”は価値判断とは違うの。だから、好き=価値承認って言い切るのは……ちょっと飛躍がある気がする」


 合理的な反論だ。

 でも、それは僕の議論の「核」とかすかにズレている気もした。


 「でもさ。価値判断と感情って、完全に切り離せる?」


 未唯は考え込むように眉を寄せる。


 「切り離すべき、だと思う。カント的には」


 「でも実際は?」


 未唯は口を閉じた。

 図書館の奥から学生たちの気配が聞こえてくる。紙のめくれる音、キーボードを叩く小さな打音。少しの沈黙が流れる。


 その沈黙の中で未唯は、ゆっくりと視線を上げた。


 「……切り離そうと努力する、が正しいかな。感情に支配されないように。でも完全には無理だと思う。価値判断が影響を受けることはあるよ。経験から価値観が形成されるんだから」


 この答えは少し意外だった。未唯はいつも“理性は感情に勝つべき”という調子で語る。しかし今は、それを少し緩めていた。


 「じゃあ、好きと価値承認は、完全には別じゃないってこと?」


 未唯は口の端を少しだけ上げた。


 「……重なるところはあると思う。でも、それは“好き”が価値判断に影響するんじゃなくて、価値判断が“好き”の形を整える感じ」


 「どういうこと?」


 未唯は、少し照れたように視線をそらしながら指先で本の縁を撫でる。


 「真くんの言ってた“価値を認める”って、たぶん好きの一部ではあるよ。だけど、それだけじゃ好きの全部にはならない。価値判断は、ただ“その人がどういう人か”を理解するための部分。でも好きは……もっと混ざってる」


 「主観的快とか、関心の偏りとか?」


 「うん。それに、相手の生活史とか、美的感覚とか、自分の記憶も入り混じる。価値判断はその中の“理性的な部分”ってだけ」


 彼女の言葉を聞きながら、僕は昨日までの考えが揺らぎ始めるのを感じていた。


 「好きは価値承認の結果ではあっても、価値そのものじゃない。感情は感情、価値は判断。たまたま同じ方向を向くこともある。それだけ」


 「……つまり、好きは価値判断よりも“複雑”ってこと?」


 「そう。真くんが想像してるより、ずっと複雑」


 未唯がこう言うのは珍しい。いつも彼女は“単純化する”側なのに。


 「複雑で、整理が難しくて、でも……」


 そこで彼女は言葉を切り、少しだけ頬に赤みが差した。


 「……でも、価値判断が整ってる人の方が、私は安心できる気がする」


 僕は一瞬、返す言葉を失った。

 それは、僕に向けた言葉なのか。

 それとも単に一般論として言ったのか。


 未唯は続ける。


 「だから、価値は判断。感情じゃない。好きは感情。だけど、価値判断の仕方が丁寧な人は……たぶん、信頼できる」


 信頼。

 その一言は、昨日の拒絶とは違う温度を持っていた。


 「真くんは、価値を言語化できるから……私はそれを“安心”として受け取ってるんだと思う」


 「じゃあ……少しは、僕のことを“価値のあるもの”として見てくれてるの?」


 未唯は慌てて首を横に振る。


 「ち、違う! そういう意味じゃなくて……! 価値“承認”じゃなくて、価値“判断”として、ね。混ぜないでよ」


 その必死な様子に、僕は思わず笑ってしまった。

 すると未唯は頬を膨らませる。


 「笑わないで。……ほんとに、混ざらないようにしてるの」


 「分かってるよ。でも、少しだけ嬉しかったから」


 未唯は言葉を返さなかった。

 けれどその沈黙は、昨日より柔らかい沈黙だった。


 そして僕は気づく。

 価値判断は感情ではない。だけど、感情のまわりに静かに形を作り、好きという現象の輪郭を整えていく。


 好きが価値承認“ではない”なら、好きの構造の中で価値承認がどんな位置を占めるのか。

 それを考えることが、次の議論につながる。


 未唯は最後に、ほとんど囁くように言った。


 「……好きは感情。価値は判断。だから、私は“判断”の方を大事にしたいの」


 その言葉には、彼女の生い立ちも、彼女が選んできた生き方も、そして彼女がこれまで抱えてきた痛みも、きっと含まれているのだろう。


 僕はその意味をまだすべて理解できてはいなかったが、いつか理解しなければならないと思った。

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