ep. 31 真:好き=相手の価値を認めること
昼過ぎのキャンパスは、春の名残をかすかに思わせる柔らかな光に包まれていた。広曽木真は、学食に隣接したテラス席にノートを広げ、未唯が来るのを待っていた。哲学科の学生が何人か、ぼんやりとその辺りを歩いている。議論好きな者たちの声が、時折風に乗って聞こえてくる。
真は、ページをめくる手を一度止めた。今日話す内容を、どこまで踏み込んで伝えるべきか、その境界線をまだ決めかねていた。
——“価値承認”。
これが「好き」の核であるはずだ、と真はずっと思ってきた。けれど、それを真正面から言葉にするのは容易ではない。好きとは何かを問い始めてから、感情の曖昧さと向き合うなかで、真は徐々に自分の考えを組み立ててきたつもりだった。だが未唯の前では、どれほど準備しても自信が揺らいでしまう。
「ごめん、待った?」
未唯が姿を見せた。薄い紺色のロングスカートに、白いカーディガン。色彩としては控えめだが、彼女の雰囲気とどこか調和している。「現象」みたいだと真が思ってしまうのは、もう癖のようなものだ。
「いや、今来たところ」
言いながら、真はノートを閉じた。未唯は向かいの席に座り、少し息を整えてから、テーブルの上にカバンを置いた。
「今日のテーマは……“価値承認”?」
「うん。第2章までで、快楽とか、好きの形式の話はある程度整理できたからさ。そろそろ『好きの核』に踏み込みたいなと思って」
未唯は小さく頷いた。
「いいよ。わたしも気になってたし。真が言ってた“価値を認める”って、どういう意味?」
真はほんの一瞬、言葉を選ぶ間を置いた。
「うまく言えるかわからないけど……。俺にとって“好き”って、その人が持ってる価値を認めることなんだ。外見とか性格とか、性質や行為の一つひとつが“良い”って判断できて、尊重したくなる。もっと知りたくなる。そういうふうに思えたときに“好き”が生まれる気がしてて」
未唯はゆっくりと視線を落とした。少し考えるときの癖だ。
「それって、判断なんじゃない? 感情じゃなくて」
「判断……?」
「うん。価値を認めるって、ある意味、それは“この人は良い”って判断してるってことでしょう? 判断は理性の働きで、感情とは別の領域。わたしたちが“好きだ”と感じるときに、それって本当に価値判断と結びついているのかなって思うんだよね」
未唯の声は穏やかだったが、言っていることは鋭い。
真は、思わず背筋を伸ばした。
「まぁ……たしかに判断と感情は違うけどさ。でも、たとえば未唯のことを考えると、俺は“良い”と思うし、“尊重したい”って思う。その気持ちは……判断から始まってる感じがするんだ」
未唯は少しだけ頬に手を添えて、真の言葉をかみしめるように目線を泳がせた。
「尊重……。“尊重したい”っていうのは、好きの一部分なの?」
「俺はそう思ってる。少なくとも俺の場合はね」
未唯はテーブルの縁を軽く指で叩きながら、深く息を吸った。
「真の言っている“価値承認”は、すごく大事だと思う。でもね……」
「ああ、でも?」
「価値を認めることと、好きになることは一致しない可能性もあるんじゃない?」
真は思わず息を飲んだ。
「たとえば、尊敬している教授の価値を認めていても、その人を好きになるとは限らない。あるいは、家族の価値を理解し尊敬していても、恋愛的な“好き”とは別のところにある」
「……まぁ、それは……そうかもしれない、な」
未唯の言うことは筋が通っていた。真自身も、価値承認を“恋愛的好き”と完全一致させたいわけではない。ただ、「核」であるとは感じていた。
真は、ノートを再び開き、自分のメモを指で辿った。
「俺が言いたいのはさ……。好きにはいろんな要素があるけど、その土台に“価値承認”がある気がするってことなんだ。つまり、尊重できない相手を好きになることって、ほとんどないと思うんだよ」
その言葉に未唯が反応した。
「……尊重できない相手、か」
「うん。価値を認めるって、相手の存在を肯定することだろ。それがないと、行動傾向も、利他的な配慮も、未来を考える気持ちも出てこない。そういう意味で“核”になってると思うんだ」
未唯は、しばらく黙っていた。キャンパスの向こうで学生たちの笑い声が聞こえる。時間だけがゆっくりと流れていくようだった。
やがて、未唯は小さく言った。
「……真がわたしに尊重を向けてくれてることは、わかるよ」
その言葉は、真の胸を軽く震わせた。
未唯は続ける。
「でも、わたし自身は、価値承認と好きの関係をまだ整理できてない。価値を認めても好きにならないことがあるし、逆に価値をはっきり認められなくても、なんとなく心が動くときがある。……その“なんとなく”の存在が、わたしにはまだ理解できない」
真はその言葉を聞きながら、未唯の目に宿る透明な戸惑いを見つめていた。未唯の思考は正確で冷静だが、同時に不器用なほど誠実だ。
——だから、好きになったのだと真は思った。
沈黙が落ちた。その沈黙は気まずいものではなかった。むしろ議論と議論のあいだにしか存在しない、何かを思索するための静けさだった。
真は、未唯の表情を確かめるように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……未唯はさ、“価値を認める”ってことを、どう感じてる?」
未唯は少しだけ唇に触れ、考え込んだ表情をした。
「わたしにとって価値判断は、理性の働きなんだよね。カントが言うように、価値は普遍性を持つ可能性があって、感情とは違う次元にある。だから、わたしはまだ“価値を認める”と“好き”がどこで繋がるのか、うまく言語化できてない」
「……そっか」
未唯はさらに続けた。
「ただ、一つだけ言えるのは……。真がわたしの価値を見ようとしてくれていることは、伝わってる。わたし自身が気づいてなかった部分を、真が丁寧に拾おうとしてくれてるのも」
真はその言葉を聞いた瞬間、胸の奥にあたたかいものが広がるのを感じた。
未唯が、自分を「価値の対象」として見てくれている。
それだけで十分すぎるほど嬉しかった。
けれど同時に、その優しい言葉の裏に、小さな距離も感じ取ってしまう。
“それでも好きとは言えない”。
その暗黙の含意が、薄く影のように響いていた。
真は少し笑った。
「俺さ、価値承認って、言葉にすると堅いけど……。結局は、その人のあり方を“良い”と思えるかどうかってことなんだよね。行動も、考え方も、生き方も。その全部を『この人は良い』って肯定できるから、もっと一緒にいたいと思う。それが俺の“好き”の始まりなんだ」
未唯は真を見つめた。
「……真の『良い』って、どんな基準なの?」
真は一瞬言葉に迷ったが、すぐに答えた。
「未唯みたいに……自分の考えを大事にしてる人。誠実で、ちゃんと筋を通して生きようとしてる人。そういう生き方を“良い”と思うんだよ」
未唯の頬が、ほんのわずかに赤くなった。
しかしすぐに目を伏せ、静かに言った。
「……それが、わたしにはまだ“好き”として理解できない。価値を認められても、心がどう動くのかが、まだわからない」
その言葉は正直だった。
それは拒絶ではなく、理解の途中だという告白でもあった。
真はうなずいた。
「いいよ。理解できるまで、一緒に考えれば」
未唯は驚いたように目を上げた。
「……一緒に?」
「うん。俺だけの定義じゃ意味ないし。未唯の“価値”の感じ方や判断の仕方も含めて、二人で作る定義じゃなきゃ、本物じゃないだろ?」
未唯はしばらく真を見つめて、それから静かに微笑んだ。
「……真って、ときどきすごく“価値ある”こと言うよね」
「それ、褒めてる?」
「うん。いまのは、ちゃんと褒めてる」
その一言が、真の胸に予想以上に深く響いた。
それは恋ではない。
でも、価値の承認だった。
そして、未唯が初めて「真の価値」をほんの少しだけ見た瞬間でもあった。
その小さな認識の揺れが、やがて二人の「好き」の輪郭を作っていく。
真はまだ気づいていないが、未唯の心には、すでに目に見えない微細な変化が始まりつつあった。




