ep. 30 “好きの輪郭”が少し見える
未唯が「急がせないで」と言ったあの瞬間、
僕の中で何かの速度がすっと落ちた。
胸の奥にずっと渦巻いていた焦りが、
薄く霧のように散っていく感覚がした。
ベンチの近くで風が吹き、
キャンパスの桜の枝がわずかに揺れた。
季節はまだ早春で、その空気は透きとおっている。
未唯は炭酸水のキャップを閉め、
その上に手を置いたまま黙っていた。
僕も何も言わなかった。
沈黙は重いものではなく、
ただ、二人の間に流れる透明な時間だった。
しばらくして、未唯がぽつりと言った。
「……ねぇ、真くん。」
「うん。」
「わたし……今日、少しだけ、
“世界が見えた”気がした。」
その言葉は、
まるで透明な水滴が静かに石に落ちたような、
そんな音のしない衝撃を持っていた。
「……世界が?」
「うん。“好き”が世界をどう見せるのか……
その入り口みたいなものを、
ちょっとだけ覗いた気がした。」
僕は言葉を失った。
未唯が“好き”という言葉を、
拒否でもなく、否定でもなく、
“現象として語った”のが初めてだったからだ。
未唯は続ける。
「真くんが説明してくれた“快の二層構造”とか、
“意味の快”とか……
全部、今まで知らなかったけど……」
そこで彼女は息を吸う。
「……たしかに、わたし……
真くんとの会話そのものが“意味”になってた。」
胸が高鳴る。
でも、それが喜びなのか、
あるいは未唯が苦しんでいることへの痛みなのか、
よく分からなかった。
未唯は、細い指でペットボトルをゆっくり回すようにして言った。
「正確には……
真くんの表情とか、
言葉選びとか……
そういう“真くんらしさ”が、
わたしの理解に影響を与えてた。」
「……僕らしさ?」
「うん。
たぶん、別の人に説明されても、
今日みたいにはならなかったと思う。」
僕は呼吸を忘れた。
未唯は表情を崩さないまま、
淡々と、しかしどこか困ったように続ける。
「それが“好意”なのか“影響”なのか、
まだわからないけど……
わたしの中で、何かが変わり始めてるのは分かる。」
その言葉は、僕の心の奥深くにまっすぐ届いた。
未唯は指先を重ね、その上で親指だけが小さく動いた。
「……ただね。
好きの定義って、すごく怖いの。」
「怖い?」
「真くんは、“好きには核がある”って言ったよね?
快・価値・関心の偏り……その三つ。」
「うん。」
未唯は視線を落とし、足元を見つめる。
「今日のわたし……
そのうちの“快”を少しだけ感じて……
それが“次の段階につながるかもしれない”って思って、
怖くなった。」
「つながっても、いいんじゃない……?」
そう言うと、
未唯はゆっくり首を振った。
「……急には無理だよ。
だって、わたし……
好きって、まだ分からないんだもん。」
その声は、かすかに震えていた。
「でもね、真くん。」
未唯は少しだけこちらを見る。
「“好きがある”って思うと怖いけど……
“好きに近いものがどこかにあるかもしれない”って思うことは、
そんなに怖くなかった。」
胸の奥で、何かがはっきりと光を持った。
未唯は、
ほんの一歩だけ、
自分の輪郭を超えるような言葉を続ける。
「今日……
真くんと話していて……
わたし、初めて、
“好きとはどういうものなのか”を、
自分の中でほんの少しだけ掴めた気がした。」
僕は、息を呑んだ。
未唯はさらに続ける。
「真くんの説明を聞いて……
“好き”って、もっと単純なものなのかもしれないって思えた。
感情の爆発とかじゃなくて……
こうやって誰かと話して、理解して、
少しずつ輪郭が見えていくような……
そんな静かなものかもしれないって。」
言葉が出ない。
僕はただ未唯の顔を見ていた。
未唯は、手の中の炭酸水をゆっくり握りしめながら言う。
「わたし……
今日、真くんと話してて……
自分の感情の中に、
“真くんに向かう注意の偏り”みたいなものが、
ちょっとだけあった気がする。」
その一言で、世界の輪郭が変わった。
「……未唯、今……
それ、どういう意味で言ってるの?」
とても慎重に、僕は尋ねた。
未唯は少し考え、
言葉を探し、
そして正確に選んで言った。
「“好き”とはまだ言えない。
でも……
“ただの関心”でもない。」
再び、風が吹く。
その風が桜のつぼみを揺らし、
光が彼女の横顔に落ちる。
「わたし、真くんのことを……
“理解したい”って思った。」
その瞬間だった。
僕の胸の奥に、
静かに、しかし確かに、
ひとつの“輪郭”が生まれた。
それは爆発的な喜びではなく、
誰にも聞こえない音でゆっくりと広がる光のような感覚。
未唯の言葉を借りるなら——
静かな“快”だった。
未唯は立ち上がり、ベンチの前で振り返った。
「……でもまだ怖いから。
だからゆっくりでいい?」
僕は答えた。
「うん。ゆっくりでいい。
未唯の速度で。」
未唯は少しだけ笑い、
陽だまりのような表情を見せた。
「……じゃあ、また話そうね。
“好き”のこと。」
その背中を見送りながら、
僕は確かに感じていた。
今日、未唯の中に生まれた“快”は──
もう、ただの理解や意味ではない。
それは、
確かに“好きの輪郭”だった。
そして僕は、
その輪郭がいつか形になる日を、
静かに待ちたいと思った。




