表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
好きがわからない君へ告白したら、カント倫理学でフラれました。 ――それでも僕たちは、自律から始まる恋を続けていく  作者: 目田 不識(めた・ふしき)
第0章 告白と拒絶:原初的非対称

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/70

ep. 3 割り込みは静かに始まる

 中庭から図書館へ向かう道は、昼間よりも落ち着いていた。建物の壁面を照らす夕光はすでに薄れ、空気には夜に向かう冷たさが混じり始めている。だが真の胸中には、なぜか温かいものが残っていた。ほんの少しの会話が、思っていた以上に深く心を占めていた。


 未唯と別れたあと、真は図書館へ足を運んだ。自習スペースには既に数名が陣取っていて、静寂の中にページをめくる音だけが小さく響いている。真は空いている席に腰を下ろし、ノートパソコンを開いた。


 広曽木真は、自分の感情に敏感なタイプではない。

 むしろ、感情の“前景化”を防ぐように生きてきた人間だった。


 父の厳格さ、母の疲れた背中。

 子どもの頃から、真の行動規範は「余計なことを言わない」「波を立てない」「問題を増やさない」だった。感情よりも論理。衝動よりも秩序。そうした選択が自然に身についていた。


 ――だからこそ、“割り込み”は異常事態だった。


 パソコンを開くと、思い出す。

 講義室でノートに書かれた未唯の細い筆圧。

 ベンチで見た、少しだけ不安げな視線。

 そして「好きが分からない」と言った、あの弱い声。


 集中しようとしても、文字が頭に入ってこない。

 いつもなら図示化できる思考の構造が、なぜか今日だけは曖昧な波みたいに崩れていく。


 「……めんどくさ」


 真は小さくつぶやいた。


 感情というやつは、いつもタイミングが悪い。意識しようとすると逃げていくくせに、忘れようとすると追いかけてくる。


 そのとき、ポケットのスマホが震えた。画面には、大学の知り合いのグループチャットからの通知が表示されていた。


《飲み会どうする? 今日のゼミお疲れ様〜》


《広曽木も来るよな?》


 真は短く返事を打った。


《悪い、今日はいいや。勉強する》


 本当は勉強どころではなかった。

 だが、未唯との会話を反芻するために、静かな時間が必要だった。


 自分はなぜ、あの言葉に反応してしまうのか?


 ――「わたし、感情が分からないんだよね」


 その一言に、過去のどこかが刺激された気がした。


 数年前の記憶。

 中学の頃、同じように「感情が分からない」と言って泣いた友人がいた。そのとき真は、どうにか言葉を探して慰めようとしたが、何も言えなかった。

 “論理”では慰められない人間がいることを初めて知った瞬間だった。


 未唯は、あの時の彼女と同じ目をしていた。

 形を探して霧の中で迷っている目だ。


 真はペンを手に取り、ノートを開いた。

 白紙のページに、考えるように文字を書く。


《好きとは、価値承認+注意の偏り?》


《恋愛=割り込み現象》


《未唯は“割り込み”が起きないタイプ?》


 書いてから、思わず苦笑した。


「……何やってんだ俺」


 自分の感情の分析を、無意識に始めてしまっている。

 恋愛を論理的に扱おうとする、その反射的な癖に気づき、真は額を押さえた。


 そのとき、図書館の自動ドアが開き、小さな足音が近づいてきた。


 ふと目を上げると――未唯がいた。


 偶然なのか、それとも必然なのか。

 真は呼吸が浅くなるのを感じた。


 未唯は、周囲をきょろきょろと見渡し、空いている席を探しているようだった。真の視線に気づくと、少しだけ肩をすくめ、控えめに手を振った。


 その仕草は、普段の彼女の硬さとは違う柔らかさを帯びていた。


 未唯が近づいてきて、小さな声で言った。


「……さっきは、ありがとう」


「え?」


「ベンチの時。変な話、聞いてくれたから」


「ああ……」


 真は思わず姿勢を正した。

 未唯は続ける。


「広曽木くんって、話を聞くのが上手だよね。なんか、ちゃんと……分かろうとしてくれる」


 真は目を逸らした。


「そんなことないよ。ただ、興味があるだけ」


「興味……?」


「未唯の考え方に」


 未唯は、しばらく言葉を失っていた。

 それから、ほんの少しだけ笑った。


「……そういうの、慣れてないんだよね。ありがとうって言われるのも、興味持たれるのも」


「人に興味持たれたことって、あんまりなかった?」


「うん。小さいころから、“与えられた義務をこなすこと”だけが大事って思ってたから。話すことも、求められない限りは避けてた」


 真は息を呑んだ。

 未唯の言葉は、彼女の輪郭をほんの少しだけはっきりさせた。


 ――彼女の“沈黙”には理由がある。

 ――彼女の“好きが分からない”には、生活史が潜んでいる。


 未唯は、座った。

 真の斜め前の席だった。


「邪魔だったらごめんね。場所、ここしか空いてなくて」


「邪魔じゃないよ。……歓迎だよ」


 言った瞬間に、自分でも驚くほど早く、心臓が跳ねた。

 未唯は顔を赤らめることもなく、ただ淡々とノートを広げた。


 しかしその横顔には、少しだけ安堵の影が見えた。


 二人はしばらく無言で机に向かった。

 沈黙は、決して重くなかった。

 むしろ、少し心地よい。


 だが、この“心地よさ”が、真の中で別種の波紋を生んでいた。


 ――この沈黙、悪くない。

 ――いや……悪い。これは危ない。


 真は、無意識に目線を上げてしまう。

 未唯がページをめくる指。

 集中して文字を書く横顔。

 唇に触れる呼吸の形。


 注意の偏りは、すでに始まっていた。


「……なんで、そんなに見るの?」


 不意に、未唯が問いかけた。

 真は慌てて視線を逸らす。


「ご、ごめん」


「いや、別に怒ってるとかじゃなくて……なんか、視線感じたから」


「……いや、あの……考えてたんだ」


「考える?」


「未唯がどうやって物事を捉えてるのか。気になって……」


 未唯は目を瞬かせた。


「どうやって、って……そんな大層なものじゃないよ」


「大層だよ。俺には分からないから、知りたい」


 未唯の表情が、揺れた。

 それは“肯定されることに慣れていない人間の反応”そのものだった。


 静かな沈黙が落ちる。

 図書館の空調の音が、二人の間に薄く流れる。


 未唯は、ほんの少しだけ躊躇してから、口を開いた。


「……ねえ、広曽木くん」


「なに?」


「恋愛って、本当に“割り込み”なの?」


「多分……俺にとっては、そう」


「じゃあ……今のわたしには割り込んでこない何かが、いつか入ってくるのかな」


 真の心臓が跳ねた。

 その問いの“危険な可能性”に気づいたからだ。


 自分が、もう“割り込んでいる”という事実を、

 彼女に知られたくない部分が確かにあった。


 真は静かに息を整えた。


「……いつか来るよ」


「ほんと?」


「うん。思考って、油断するとやられるから」


 未唯は、ふっと笑った。


 その笑みは小さく、静かで、かすかな光のようだった。

 しかし真には、その光が胸に強く刺さるように感じられた。


 ノートを広げながら、未唯は言った。


「じゃあ、その“割り込み”が来る日まで……わたし、ちゃんと考えてみる」


「考える?」


「うん。“好き”ってなんなのか」


 その瞬間、真は悟った。

 ――自分はもう逃げられない。

 ――この感情は、もう論理で抑えられない。


 静かに始まった割り込みは、

 静かに真を支配し始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ