ep. 3 割り込みは静かに始まる
中庭から図書館へ向かう道は、昼間よりも落ち着いていた。建物の壁面を照らす夕光はすでに薄れ、空気には夜に向かう冷たさが混じり始めている。だが真の胸中には、なぜか温かいものが残っていた。ほんの少しの会話が、思っていた以上に深く心を占めていた。
未唯と別れたあと、真は図書館へ足を運んだ。自習スペースには既に数名が陣取っていて、静寂の中にページをめくる音だけが小さく響いている。真は空いている席に腰を下ろし、ノートパソコンを開いた。
広曽木真は、自分の感情に敏感なタイプではない。
むしろ、感情の“前景化”を防ぐように生きてきた人間だった。
父の厳格さ、母の疲れた背中。
子どもの頃から、真の行動規範は「余計なことを言わない」「波を立てない」「問題を増やさない」だった。感情よりも論理。衝動よりも秩序。そうした選択が自然に身についていた。
――だからこそ、“割り込み”は異常事態だった。
パソコンを開くと、思い出す。
講義室でノートに書かれた未唯の細い筆圧。
ベンチで見た、少しだけ不安げな視線。
そして「好きが分からない」と言った、あの弱い声。
集中しようとしても、文字が頭に入ってこない。
いつもなら図示化できる思考の構造が、なぜか今日だけは曖昧な波みたいに崩れていく。
「……めんどくさ」
真は小さくつぶやいた。
感情というやつは、いつもタイミングが悪い。意識しようとすると逃げていくくせに、忘れようとすると追いかけてくる。
そのとき、ポケットのスマホが震えた。画面には、大学の知り合いのグループチャットからの通知が表示されていた。
《飲み会どうする? 今日のゼミお疲れ様〜》
《広曽木も来るよな?》
真は短く返事を打った。
《悪い、今日はいいや。勉強する》
本当は勉強どころではなかった。
だが、未唯との会話を反芻するために、静かな時間が必要だった。
自分はなぜ、あの言葉に反応してしまうのか?
――「わたし、感情が分からないんだよね」
その一言に、過去のどこかが刺激された気がした。
数年前の記憶。
中学の頃、同じように「感情が分からない」と言って泣いた友人がいた。そのとき真は、どうにか言葉を探して慰めようとしたが、何も言えなかった。
“論理”では慰められない人間がいることを初めて知った瞬間だった。
未唯は、あの時の彼女と同じ目をしていた。
形を探して霧の中で迷っている目だ。
真はペンを手に取り、ノートを開いた。
白紙のページに、考えるように文字を書く。
《好きとは、価値承認+注意の偏り?》
《恋愛=割り込み現象》
《未唯は“割り込み”が起きないタイプ?》
書いてから、思わず苦笑した。
「……何やってんだ俺」
自分の感情の分析を、無意識に始めてしまっている。
恋愛を論理的に扱おうとする、その反射的な癖に気づき、真は額を押さえた。
そのとき、図書館の自動ドアが開き、小さな足音が近づいてきた。
ふと目を上げると――未唯がいた。
偶然なのか、それとも必然なのか。
真は呼吸が浅くなるのを感じた。
未唯は、周囲をきょろきょろと見渡し、空いている席を探しているようだった。真の視線に気づくと、少しだけ肩をすくめ、控えめに手を振った。
その仕草は、普段の彼女の硬さとは違う柔らかさを帯びていた。
未唯が近づいてきて、小さな声で言った。
「……さっきは、ありがとう」
「え?」
「ベンチの時。変な話、聞いてくれたから」
「ああ……」
真は思わず姿勢を正した。
未唯は続ける。
「広曽木くんって、話を聞くのが上手だよね。なんか、ちゃんと……分かろうとしてくれる」
真は目を逸らした。
「そんなことないよ。ただ、興味があるだけ」
「興味……?」
「未唯の考え方に」
未唯は、しばらく言葉を失っていた。
それから、ほんの少しだけ笑った。
「……そういうの、慣れてないんだよね。ありがとうって言われるのも、興味持たれるのも」
「人に興味持たれたことって、あんまりなかった?」
「うん。小さいころから、“与えられた義務をこなすこと”だけが大事って思ってたから。話すことも、求められない限りは避けてた」
真は息を呑んだ。
未唯の言葉は、彼女の輪郭をほんの少しだけはっきりさせた。
――彼女の“沈黙”には理由がある。
――彼女の“好きが分からない”には、生活史が潜んでいる。
未唯は、座った。
真の斜め前の席だった。
「邪魔だったらごめんね。場所、ここしか空いてなくて」
「邪魔じゃないよ。……歓迎だよ」
言った瞬間に、自分でも驚くほど早く、心臓が跳ねた。
未唯は顔を赤らめることもなく、ただ淡々とノートを広げた。
しかしその横顔には、少しだけ安堵の影が見えた。
二人はしばらく無言で机に向かった。
沈黙は、決して重くなかった。
むしろ、少し心地よい。
だが、この“心地よさ”が、真の中で別種の波紋を生んでいた。
――この沈黙、悪くない。
――いや……悪い。これは危ない。
真は、無意識に目線を上げてしまう。
未唯がページをめくる指。
集中して文字を書く横顔。
唇に触れる呼吸の形。
注意の偏りは、すでに始まっていた。
「……なんで、そんなに見るの?」
不意に、未唯が問いかけた。
真は慌てて視線を逸らす。
「ご、ごめん」
「いや、別に怒ってるとかじゃなくて……なんか、視線感じたから」
「……いや、あの……考えてたんだ」
「考える?」
「未唯がどうやって物事を捉えてるのか。気になって……」
未唯は目を瞬かせた。
「どうやって、って……そんな大層なものじゃないよ」
「大層だよ。俺には分からないから、知りたい」
未唯の表情が、揺れた。
それは“肯定されることに慣れていない人間の反応”そのものだった。
静かな沈黙が落ちる。
図書館の空調の音が、二人の間に薄く流れる。
未唯は、ほんの少しだけ躊躇してから、口を開いた。
「……ねえ、広曽木くん」
「なに?」
「恋愛って、本当に“割り込み”なの?」
「多分……俺にとっては、そう」
「じゃあ……今のわたしには割り込んでこない何かが、いつか入ってくるのかな」
真の心臓が跳ねた。
その問いの“危険な可能性”に気づいたからだ。
自分が、もう“割り込んでいる”という事実を、
彼女に知られたくない部分が確かにあった。
真は静かに息を整えた。
「……いつか来るよ」
「ほんと?」
「うん。思考って、油断するとやられるから」
未唯は、ふっと笑った。
その笑みは小さく、静かで、かすかな光のようだった。
しかし真には、その光が胸に強く刺さるように感じられた。
ノートを広げながら、未唯は言った。
「じゃあ、その“割り込み”が来る日まで……わたし、ちゃんと考えてみる」
「考える?」
「うん。“好き”ってなんなのか」
その瞬間、真は悟った。
――自分はもう逃げられない。
――この感情は、もう論理で抑えられない。
静かに始まった割り込みは、
静かに真を支配し始めていた。




