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好きがわからない君へ告白したら、カント倫理学でフラれました。 ――それでも僕たちは、自律から始まる恋を続けていく  作者: 目田 不識(めた・ふしき)
第2章 快楽の形式と内容

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ep. 29 議論の噛み合わなさ

未唯は炭酸水を見つめたまま、何度か小さく深呼吸をした。

ゆっくり、ゆっくりと胸が上下するのが分かる。

さっきまでの会話が、彼女の内部に新しい通路を作り、その通路の行き先を確かめるようにしているのだろう。


僕は横でその様子を見つめながら、

同時に、ふと胸のどこかに小さな不安が生じたのを感じていた。


──理解が進んだのに、

  なぜか話すほど距離が近づいていない気がする。


その理由が分からなくて、心がざわつく。

未唯と話せば話すほど、距離が近づいていくはずだと、

僕はどこかで当然のように思い込んでいた。

しかし未唯は、理解が深まるたびに、

逆に自分の輪郭をより明瞭にしていくようにも見える。


しばらく沈黙したのち、未唯が口を開いた。


「ねえ、真くん。」


「うん。」


「……わたしさ、“快”って、もっと危険なものだと思ってた。」


「危険?」


「うん。わたしにとって“快”は……

 自分を見失わせるもの、みたいな。」


その言葉は、

僕がこれまで一度も考えたことのない角度から“快”を捉えていた。


未唯は続ける。


「欲望って、わたしには怖いの。

 誰かを求めてしまうとか、

 何かに依存してしまうとか、

 そういう“自分でなくなる感じ”が。」


僕はうなずいたが、

同時にその感覚が自分の中にはないことも自覚していた。


「……だからね、今日みたいに“快”を感じたとき……

 わたし……すごく戸惑ったんだ。」


言いづらそうに、視線を落とす未唯。


「戸惑った?」


「……うん。“また自分が崩れてしまうかもしれない”って思った。」


胸の奥が、どくんと鳴った。

未唯のその言葉は、僕にとっては想定外だったからだ。


僕にとって“快”は危険でも不安でもない。

自分を理解する手がかりであり、世界と繋がる感覚であり、

何かを判断するためのヒントだ。


だけど未唯にとっては──

それは“不安の源”になるらしい。


「……未唯、それは──」


僕が言葉を探している間に、未唯が続けて言う。


「真くんは……快を怖いと思ったこと、ないでしょ?」


不意をつかれた。


「……いや、ないかもしれない。」


「だよね。」


未唯は少しだけ寂しそうに笑った。

そしてその笑みは、なぜか僕を焦らせた。


まるで、

理解し合えたはずの場所から、

また一歩、彼女が遠ざかっていく気がして。


「未唯、違うよ。

 怖いと思ったことはないけど、

 理解したいって気持ちはある。」


「うん。それは分かってる。でも……

 “分かろうとすること”と、

 “分かること”って違うでしょ?」


言われて、言葉を失った。


未唯は、僕の目をじっと見つめて言う。


「真くんはたぶん、“理解できる前提の世界”を生きてる。」


「……どういう意味?」


「だって、真くんは説明すれば理解するし、

 理解すれば整理できるし、

 整理すれば安心するんでしょ?」


「……まあ、そうだね。」


「でも、わたしは違うの。

 理解しても安心できないときがあるし、

 理解した瞬間に、逆に分からなくなることもある。」


胸に刺さる。

僕にとって“理解”はまっすぐに前へ進む道だが、

未唯にとって“理解”は時に彼女を不安にさせるらしい。


「さっきの快……

 わたし、確かに感じたよ。

 でも同時に、怖かった。」


「怖かった理由って……?」


未唯は言葉を詰まらせ、膝の上で手を握りしめる。


「……わたし、自分の感情が分からないから。

 “快を感じた”ってだけで、

 真くんが“特別”になってしまったらどうしようって。」


息が止まった。


「……今日、少しわかっただけなのに、

 真くんが、わたしにとって意味を持つ存在になってしまうのが……

 怖い。」


その言葉は、

痛みと優しさが入り混じったような響きを持っていた。


僕は、胸の奥から何かが込み上げてくるのを感じた。

でも、それを「嬉しい」とも「悲しい」とも言えなかった。


未唯は続ける。


「真くんは……“快を言語化してくれた”よね。

 すごく分かりやすかったし、

 わたしの中に道筋ができた。」


「うん。」


「だけどね……

 言語化されると、また怖くなるの。」


「どうして?」


未唯は視線を下げる。


「言語化されると……“形”になるから。

 形になったものは……

 わたしを縛りそうだから。」


僕は返す言葉を失った。


理解が深まったはずなのに、

なぜか話せば話すほど、

僕と未唯は別の方向に歩いているような感覚。


未唯は、静かに告げる。


「真くんが悪いわけじゃないんだよ。

 むしろ……ありがたいと思ってる。

 でも……わたしはまだ、自分がどこに向かってるのか分からない。」


「……僕と話しても?」


「うん。真くんと話すと、分かった気になる。

 でもそれが本当に“わたしの理解”なのか、

 まだ判断できないの。」


その言葉は、

僕の胸に重たく落ちた。


たしかに僕は、

自分が理解したことを未唯にも理解してほしい、

その上で同じ景色を見たいと思っていた。


しかし未唯は、

理解そのものに慎重で、

理解が意味を持つことすら怖がっている。


「……未唯。

 僕はどうしたらいい?」


思わずこぼれたその問いに、

未唯はゆっくりと顔を上げる。


そして、驚くほど静かな声で言った。


「……そのままでいて。

 でも……わたしを急がせないで。」


胸が締めつけられるような痛みと、

それと同じくらいの温かさが広がった。


僕はようやく小さく頷いた。


「……うん。急がせない。」


未唯の目が少し潤んだようにも見えた。


「ありがと……。」


その言葉は、

距離を置く言葉でもあり、

距離をつなぐ言葉でもあった。


噛み合わないまま、

だけど確かに何かが動き続けている。


二人の間には、

まだ“好き”という言葉の入口にすら立てない溝がある。

けれどその溝の手前には、

たしかに小さな橋の影が見え始めていた。


ただ──

その橋を渡るタイミングは、

まだ誰にも分からなかった。

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