ep. 29 議論の噛み合わなさ
未唯は炭酸水を見つめたまま、何度か小さく深呼吸をした。
ゆっくり、ゆっくりと胸が上下するのが分かる。
さっきまでの会話が、彼女の内部に新しい通路を作り、その通路の行き先を確かめるようにしているのだろう。
僕は横でその様子を見つめながら、
同時に、ふと胸のどこかに小さな不安が生じたのを感じていた。
──理解が進んだのに、
なぜか話すほど距離が近づいていない気がする。
その理由が分からなくて、心がざわつく。
未唯と話せば話すほど、距離が近づいていくはずだと、
僕はどこかで当然のように思い込んでいた。
しかし未唯は、理解が深まるたびに、
逆に自分の輪郭をより明瞭にしていくようにも見える。
しばらく沈黙したのち、未唯が口を開いた。
「ねえ、真くん。」
「うん。」
「……わたしさ、“快”って、もっと危険なものだと思ってた。」
「危険?」
「うん。わたしにとって“快”は……
自分を見失わせるもの、みたいな。」
その言葉は、
僕がこれまで一度も考えたことのない角度から“快”を捉えていた。
未唯は続ける。
「欲望って、わたしには怖いの。
誰かを求めてしまうとか、
何かに依存してしまうとか、
そういう“自分でなくなる感じ”が。」
僕はうなずいたが、
同時にその感覚が自分の中にはないことも自覚していた。
「……だからね、今日みたいに“快”を感じたとき……
わたし……すごく戸惑ったんだ。」
言いづらそうに、視線を落とす未唯。
「戸惑った?」
「……うん。“また自分が崩れてしまうかもしれない”って思った。」
胸の奥が、どくんと鳴った。
未唯のその言葉は、僕にとっては想定外だったからだ。
僕にとって“快”は危険でも不安でもない。
自分を理解する手がかりであり、世界と繋がる感覚であり、
何かを判断するためのヒントだ。
だけど未唯にとっては──
それは“不安の源”になるらしい。
「……未唯、それは──」
僕が言葉を探している間に、未唯が続けて言う。
「真くんは……快を怖いと思ったこと、ないでしょ?」
不意をつかれた。
「……いや、ないかもしれない。」
「だよね。」
未唯は少しだけ寂しそうに笑った。
そしてその笑みは、なぜか僕を焦らせた。
まるで、
理解し合えたはずの場所から、
また一歩、彼女が遠ざかっていく気がして。
「未唯、違うよ。
怖いと思ったことはないけど、
理解したいって気持ちはある。」
「うん。それは分かってる。でも……
“分かろうとすること”と、
“分かること”って違うでしょ?」
言われて、言葉を失った。
未唯は、僕の目をじっと見つめて言う。
「真くんはたぶん、“理解できる前提の世界”を生きてる。」
「……どういう意味?」
「だって、真くんは説明すれば理解するし、
理解すれば整理できるし、
整理すれば安心するんでしょ?」
「……まあ、そうだね。」
「でも、わたしは違うの。
理解しても安心できないときがあるし、
理解した瞬間に、逆に分からなくなることもある。」
胸に刺さる。
僕にとって“理解”はまっすぐに前へ進む道だが、
未唯にとって“理解”は時に彼女を不安にさせるらしい。
「さっきの快……
わたし、確かに感じたよ。
でも同時に、怖かった。」
「怖かった理由って……?」
未唯は言葉を詰まらせ、膝の上で手を握りしめる。
「……わたし、自分の感情が分からないから。
“快を感じた”ってだけで、
真くんが“特別”になってしまったらどうしようって。」
息が止まった。
「……今日、少しわかっただけなのに、
真くんが、わたしにとって意味を持つ存在になってしまうのが……
怖い。」
その言葉は、
痛みと優しさが入り混じったような響きを持っていた。
僕は、胸の奥から何かが込み上げてくるのを感じた。
でも、それを「嬉しい」とも「悲しい」とも言えなかった。
未唯は続ける。
「真くんは……“快を言語化してくれた”よね。
すごく分かりやすかったし、
わたしの中に道筋ができた。」
「うん。」
「だけどね……
言語化されると、また怖くなるの。」
「どうして?」
未唯は視線を下げる。
「言語化されると……“形”になるから。
形になったものは……
わたしを縛りそうだから。」
僕は返す言葉を失った。
理解が深まったはずなのに、
なぜか話せば話すほど、
僕と未唯は別の方向に歩いているような感覚。
未唯は、静かに告げる。
「真くんが悪いわけじゃないんだよ。
むしろ……ありがたいと思ってる。
でも……わたしはまだ、自分がどこに向かってるのか分からない。」
「……僕と話しても?」
「うん。真くんと話すと、分かった気になる。
でもそれが本当に“わたしの理解”なのか、
まだ判断できないの。」
その言葉は、
僕の胸に重たく落ちた。
たしかに僕は、
自分が理解したことを未唯にも理解してほしい、
その上で同じ景色を見たいと思っていた。
しかし未唯は、
理解そのものに慎重で、
理解が意味を持つことすら怖がっている。
「……未唯。
僕はどうしたらいい?」
思わずこぼれたその問いに、
未唯はゆっくりと顔を上げる。
そして、驚くほど静かな声で言った。
「……そのままでいて。
でも……わたしを急がせないで。」
胸が締めつけられるような痛みと、
それと同じくらいの温かさが広がった。
僕はようやく小さく頷いた。
「……うん。急がせない。」
未唯の目が少し潤んだようにも見えた。
「ありがと……。」
その言葉は、
距離を置く言葉でもあり、
距離をつなぐ言葉でもあった。
噛み合わないまま、
だけど確かに何かが動き続けている。
二人の間には、
まだ“好き”という言葉の入口にすら立てない溝がある。
けれどその溝の手前には、
たしかに小さな橋の影が見え始めていた。
ただ──
その橋を渡るタイミングは、
まだ誰にも分からなかった。




