ep. 28 真、言語化して説明
未唯が階段を降りきるころには、春の雲が薄く裂け、午後の光が校舎の影を長く伸ばしていた。風が少し冷たくて、けれどその冷たさが、妙に頭を冴えさせる。未唯は建物の角にある自販機の前で立ち止まり、炭酸水を取り出して、少しだけ振り返る。
「……ちょっと、休んでもいい?」
「うん、いいよ。」
僕は頷いて横のベンチに座った。隣に座った未唯がキャップをひねると、シュッと音を立ててガスが抜けた。未唯はそれだけで少し肩を落とし、ふうっと息をついた。
「さっき言ってた“二種類の快”って……もう少し詳しく聞きたい。」
彼女の声は、何かを理解したいという意志の手触りを持っていた。未唯はいつも、言葉で物事を把握するのが得意なタイプではない。でも今日は、自分の中に生じた“何か”を確かめようとするように、僕の説明を求めている。
僕は一度視線を落とし、頭の中で言葉の形を探した。
「快にはね、二つの層があるんだ。」
未唯は姿勢を正し、じっとこちらを見る。その目は揺れながらも、まっすぐだった。
「一つ目は、快を感じる能力そのもの。誰にでも備わっている“普遍的な快”。」
「……誰でも、持ってる?」
「うん。美しいものを見て息が止まる感じとか、理解できたときのスッとする感覚とか、そういう“快を感じる器”そのものは、誰にでも共通してる。」
未唯はその言葉を飲み込み、炭酸水をひと口だけ飲んだ。舌の奥で味を確かめるような仕草だった。
「二つ目は……?」
「二つ目は、“何を快と感じるか”っていう個別的な部分。これは人によって全然違う。」
「なるほど……。食べ物の好みとか、人との会話が好きとか、そういうの?」
「そうそう。形式は普遍だけど、内容は人それぞれなんだ。」
未唯の目線が少し揺れた。
なにか、自分の中にある説明できない感覚と、僕の言葉が重なり始めているようだった。
「じゃあ……今日のわたしの“あれ”は、どっちに入るの?」
「両方。」
未唯は驚いた顔をした。
その反応が、なんだか少し幼くて、けれどとても綺麗だった。
「え、両方?」
「うん。まず、“理解できた”って瞬間に、未唯の中で普遍的な快──形式的な快が働いた。パズルのピースがカチッとはまった感じ。」
未唯は静かに頷く。
「……うん、それはわかる。」
「でも、同時に“個別的な快”も生まれてる。」
「どういう意味?」
僕は息を吸って、言葉を慎重に選ぶ。
「未唯が理解したのが、“僕との会話の中”だったってことが、
その快に意味をつけたんだ。」
未唯のまばたきが一瞬止まった。
「……わたしが……真くんとの会話だったから?」
「そう。好きとかじゃなくて、意味としての快が生まれたんだ。」
未唯の指先がペットボトルを握りしめ、そして少し緩んだ。
「……つまり、それって……わたしが真くんのことを“好き”だから……なの?」
その問いは、
“期待”ではなく、
“確認”でもなく、
ただ純粋な“未知への問い”だった。
僕は首を振った。
「違うよ。好きじゃなくても、意味は生まれる。」
未唯が軽く息をのむ。
「どういう、こと……?」
「誰かとの会話の中で理解が深まると、その相手が特別に見えることはある。でもそれは“好き”とは別物。感情じゃなくて、意味による快なんだ。」
「……好きと違うの?」
「うん。だけど、“好きの必要条件”になることはある。」
未唯は炭酸水を膝に置き、ゆっくり手を組んだ。
「……必要条件。」
「好きには、快・価値・関心の偏りっていう三つの核がある。そのうちの一つ、快。その快が今日は確かに未唯の中で生まれた。」
「……わたし……一つだけ満たしたってこと?」
「うん。大きな前進だよ。」
未唯はしばらく黙り込んだ。
校舎の影が伸びて、風が木々の葉を揺らしている。
やがて、未唯がゆっくりと口を開いた。
「……今日のわたし……“快”っていうより……
視界がいきなり開けた感じだった。」
「その感覚こそ、“反省的判断の快”だよ。」
未唯は顔を上げて僕を見る。
「……美を感じるときの、あれ?」
「そう。“理解できた”という瞬間の、静かな快。それは欲望の快じゃないから、自律を壊さない。」
未唯の目に、わずかに光が宿る。
「……そうなんだ……。
それなら、怖くないかもしれない。」
「怖くないよ。未唯が大切にしてもいい種類の快だと思う。」
未唯は胸の前で小さく手を組み、ゆっくり呼吸した。
「ねえ、真くん。」
「うん。」
「わたし、今日……
“快は悪いものじゃない”って思えた。」
その声は、
これまで閉じていた窓が少しだけ開いたような響きだった。
僕は、胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。
「未唯。
それはすごく大きな一歩だよ。」
未唯は照れたように笑った。
「……そうだといいな。」
春の光が、二人の間に柔らかく落ちていた。
その光の下で、未唯の表情はどこか穏やかで、
これまでよりほんの少しだけ、何かを受け入れているように見えた。
それは確かに、
“好きの輪郭”が初めて形を持った瞬間だった。




