ep. 27 未唯、わずかな快を自覚
* * *
図書館を出ると、
曇り空はわずかに明るくなり、
春の匂いをふくんだ風が頬をなでていった。
階段を降りる途中、未唯はずっと黙っていた。
僕はその沈黙が、
理解の沈黙なのか、
拒絶の沈黙なのか、判断しきれずにいた。
踊り場まで来たところで、
未唯がふいに立ち止まった。
「……真くん。」
その声には、
“言葉を探すための苦しさ”が微かに混じっていた。
「うん。」
「さっき……
わたしが“理解できた”って思った時の……
あれが……快……かもしれないって、言ったよね。」
「言ったよ。」
未唯は視線を下に向ける。
階段の手すりを指先で触れながら、
ゆっくり話し出した。
「……わたし、ああいうの……ずっと嫌ってた。」
「どうして?」
「だって……快が生まれたら、
そこから自分が壊れそうな気がしてた。」
「壊れる?」
未唯は息を飲むようにして言う。
「うん。
欲望に流されるのは嫌。
誰かに依存するのも嫌。
感情で判断するのも嫌。
そういうの全部……怖い。」
僕は階段の壁にもたれかかって、
少しだけ体の向きを変えた。
「未唯は、“快=破綻”って思ってたんだね。」
「……うん。」
小さな返事だった。
「だから、快に気づかないふりしてたのか。」
未唯は強く頷いた。
「そう。
気づいたら最後、
わたしは何かひどく間違える気がしてた。
それがいつからかはわからないけど……
気づかないままの方が生きやすかった。」
その言葉に、僕は息をついた。
未唯が抱えていた“硬さ”の正体が、
ようやく輪郭を持って目の前に浮かび上がった気がした。
「でもね」
未唯はぽつりと言った。
「今日、真くんに言われて……
わたし、多分……少しだけ、快を感じてたんだと思う。
気づきたくなかったのに。」
「嫌だった?」
「……嫌、じゃない。」
未唯はその“じゃない”の後をしばらく続けられなかった。
僕はその沈黙を止めようとはせず、
ただ彼女が次の言葉を選び出すのを待った。
「変なんだけどね。
嫌じゃないのに……怖い。」
「怖さって、何が一番?」
未唯はしばらく考えてから、
まっすぐ僕を見た。
「自律できなくなること。」
僕は、ゆっくり頷いた。
「でも、さっき話したよね。
美の快は他律じゃない。
快があっても、それが“利害”につながらなければ、
未唯の自律は脅かされない。」
未唯は唇を噛む。
「……頭ではわかる。
でもね、心が……全然追いつかないの。」
「それでいいよ。」
「焦らなくていい。」
未唯の表情が揺れた。
「……本当に?」
「うん。
快を感じた自分を責めないで。
それは未唯の“人格が揺らいだ”んじゃなくて、
“人格が動いた”だけなんだよ。」
未唯はその言葉を聞いた瞬間、
一歩だけ後ろに引いた。
驚いた、というより、
触れてはいけないものに触れられたような……
そんな表情だった。
「……“動いた”……?」
「そう。
硬いものが少しだけ弛んだり、
閉じてた窓がちょっとだけ開いたり……
そういう感じ。」
未唯は両手を胸の前で重ねた。
「……わたし、閉じてた?」
「閉じてたね。」
「でも……悪い閉じ方じゃなかったと思う。」
未唯はわずかに笑った。
「どういう閉じ方……?」
「理性でしっかり守ってる感じ。」
未唯は苦笑する。
「……わたし、そんな強くないよ。」
「いや、強いよ。
その閉じ方は“恐れ”じゃなくて、
“自分であろうとする意志”だと思う。」
未唯は目を伏せた。
そして、しばらくして絞り出すように言う。
「……ねぇ真くん。」
「なに?」
「わたしが今日感じたのって……
“恋愛の好き”とは全然違うよね?」
僕は首を横に振った。
「もちろん違うよ。
恋愛の好きは、快の上にもっといろんな要素が重なる。
今の未唯は、ただ“快があるかもしれない”って気づいただけ。」
「……それって、何の快?」
「ひとつは“理解の快”。
もうひとつは……
“誰かと繋がる感覚の快”。」
未唯の目がまた揺れた。
「……繋がる……?」
「そう。
誰かと考えを共有して、
そこから新しい理解が生まれる……
その瞬間の、すごく静かな快。」
未唯は、手すりをそっと握った。
「それ……わたしにも……あったかもしれない。」
その声は、
これまでのどの声よりも小さかった。
でも、その小ささこそが
“本当の言葉”であることを示していた。
僕は柔らかく言う。
「未唯、それを否定しなくていいよ。」
未唯はゆっくり頷いた。
「……うん。
初めて、少しだけ肯定できた。
気持ち悪くない快が……あるんだね。」
「あるよ。
それが“美の快”で、
自律を崩さない快。」
未唯は胸に手を当てて、
深呼吸をした。
「……わたし、今日初めて……
“快があってもいいのかもしれない”って思えた。」
その言葉には、
昨日までの未唯では絶対に出なかった
柔らかい響きがあった。
そして、
その柔らかさこそが──
“快を自覚する”というあまりにも静かな革新
だった。
未唯は息を整え、顔を上げた。
「……真くん。」
「うん。」
「わたし……変われるかな。」
僕はしっかり頷いた。
「変わるよ。でもね──」
未唯が目を見開く。
「変わるのは“未唯そのもの”じゃなく、
“未唯の閉じ方”だと思う。」
未唯はその言葉を静かに噛みしめた。
そして、小さく微笑んだ。
「……そうだといいな。」
階段を降りる未唯の背中は、
昨日よりもほんの少しだけ軽かった。
僕はその背を見つめながら思う。
これは恋愛じゃない。
まだ恋ではない。
まだ遠くにある光だ。
けれど──たしかに一歩が生まれた。




