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好きがわからない君へ告白したら、カント倫理学でフラれました。 ――それでも僕たちは、自律から始まる恋を続けていく  作者: 目田 不識(めた・ふしき)
第2章 快楽の形式と内容

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ep. 26 反省的判断としての“美”の快

* * *


翌日の昼、僕と未唯は大学図書館の奥、

いつもの窓際の席に座っていた。


外は薄く曇り、光の粒がガラス越しに柔らかく落ちている。

静かな空間のなかで、ページをめくる音が周期的に響いていた。


未唯はカント『判断力批判』を読み込んでいる。

鉛筆で細かい線を引き、時折、眉をひそめる。


「……“美的判断は利害にとらわれない快である”……

 これ、どういう意味?」


未唯が目を上げずに言った。


「お、進んでるね。

 どこが気になった?」


「“利害にとらわれない快”って……

 なんか、恋愛の“好き”とは全く違うものに見えるから。」


未唯はページを指で押さえながら、

視線だけ僕に向けた。


その目には、

“理解したいけれど、完全に噛み合っていない”

という揺れがあった。


「たとえばね」と僕は言う。


「好きな人を見て“かわいい”って思うのは、

 自分の欲望とか関心とかが関わってるよね。」


未唯は頷く。


「うん、それはわかる。

 でも、それだと利害にとらわれてる気がする。」


「そう。つまり、その“かわいい”は美的判断じゃない。」


未唯は目を瞬かせる。


「……じゃあ、“美しい”って感じるのは?」

「利害から自由な“快”なんだよ。」


「……快だけど、利害の快じゃない……?」


「そう。“美”は、欲望や所有欲とは関係ない快なんだよね。」


未唯はページを見つめながら、ぽつりと言った。


「……快にも種類があるってこと?」


「あるよ。しかも、美の快は特別なんだ。」


僕は窓の外を指差す。


「ほら、あの雲。」


未唯はガラス越しに空を見た。


「なんか……淡くて、きれい。」


「その“きれい”は利害がないよね。

 雲を所有したいわけでも、雲に触れたいわけでもない。」


未唯は笑った。


「触れないし。」


「でも、それを見て心が静かに動く。“快”だよね。」


未唯は雲から視線を戻し、

手元のページをなぞる。


「……“反省的判断”……?」


「うん。反省的判断は、

 “これはなんで快なんだろう?”って理由を探す判断なんだ。」


「快に……理由……?」


未唯は難しい顔をする。


僕は言う。


「たとえばさ、未唯って……

 僕の話を聞くとき、ちょっとだけ嬉しそうな顔する時あるよね。」


未唯は一瞬固まった。


「……え? そんな顔……してる?」


「してるよ。ほんの少しだけ。

 僕の説明がわかりやすかったり、

 自分が理解に近づいた時とか。」


未唯の頬がほんのり赤くなった。


「……それは、“快”なの……?」


「たぶんね。」


「……でも……なんか癪。」


「癪って……なんで?」


未唯は鉛筆をくるくる回す。


「わたしが快を感じてるって言われると……

 なんか、負けた気がする。」


「誰に?」


未唯は黙った。


沈黙は“答えを探す沈黙”だった。


僕は少し声を柔らかくする。


「未唯ね、昨日言ってた“注意の偏り”のこと……

 あれも快の一種なんじゃないかって思う。」


未唯は急に目を見開く。


「……やっぱり、それ言うんだ。」


「別に恋愛の快じゃないよ。

 ただの、“理解が深まる時の快”。

 美的判断と少し似てる。」


未唯は視線を落とす。


「……わたし、真くんに……快を感じてるの……?」


声はとても小さかった。


僕は静かに言う。


「感じてても、感じてなくてもいいよ。

 ただ、もしあったら……

 それは“美に近い快”だと思う。」


未唯の眉がわずかに動く。


「……なんで、“美”なの?」


「だって、利害関係ないでしょ。

 未唯は僕を所有したいわけでも、

 好かれたいわけでもない。」


「うん……全然……そんなのない。」


「でも、思考が揺さぶられるとき、

 心がふっと動く。それは快。」


未唯は、手元のページを閉じた。


深呼吸をひとつして、

僕の方をしっかり見つめる。


「……真くん。

 わたし、ずっと“快は危険だ”って思ってた。」


「どうして?」


「快があると……自律できなくなる気がするから。」


「あぁ……」


そこでようやくつながった。


未唯の中では、


「快=欲望=他律」


という等式がずっと働いていたのだ。


僕は穏やかに言う。


「未唯、それは“利害的な快”だけを見てる。」


「……じゃあ、“美の快”は違うの?」


「違うよ。完全に違う。」


未唯の目に、

昨日よりも強い光が宿った。


「……じゃあ……

 わたしが真くんの話を聞いて、

 “あ、理解できた”って思った時のあれは……?」


「美に近い快だよ。」


未唯は言葉を失ったように沈黙した。


しばらくして、

囁くような声が落ちてくる。


「……そんな……の……知らなかった……」


「未唯が悪いんじゃないよ。

 学校の倫理は“欲望の快”しか教えないから。」


未唯の目はまだ揺れている。


でもその揺れは、

昨日までの“拒絶の揺れ”ではなく、


“快を受け入れ始めた揺れ”

だった。


**


未唯は机に置いていた鉛筆を持ち、

ノートの空白にゆっくり書き始める。


《美は利害から自由な快》


そしてその下に、

迷いながら、ためらいながら、

ひとつ言葉を足した。


《わたしにも……ある?》


僕はその文字を見て、

胸の奥が少し熱くなるのを感じた。


未唯はペンを置き、

深呼吸してこちらを見る。


「……真くん。」


「うん。」


「……昨日と今日で、

 わたしの中に、

 “快”みたいなの……

 ちょっとだけ、わかったかもしれない。」


言葉の端が震えていた。


そして、声がもう一度落ちてくる。


「……怖いけどね。」


僕は静かに首を振った。


「怖がらなくていい。

 “美の快”は、未唯の自律を奪わないよ。」


未唯は、まるで確かめるように、

自分の胸にそっと手を添えた。


「……わたし、少しだけ……軽くなった。」


その言葉は、

まだ脆いけれど、

確かに新しい地平を開いていた。


未唯が初めて自覚した、

“利害にとらわれない快”。


それは──

恋愛の始まりではなく、

もっと前の、もっと静かな領域。


でもそれは確かに、

どこか遠くで微かに灯る光のように、

彼女の内側に芽生え始めていた。

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