ep. 26 反省的判断としての“美”の快
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翌日の昼、僕と未唯は大学図書館の奥、
いつもの窓際の席に座っていた。
外は薄く曇り、光の粒がガラス越しに柔らかく落ちている。
静かな空間のなかで、ページをめくる音が周期的に響いていた。
未唯はカント『判断力批判』を読み込んでいる。
鉛筆で細かい線を引き、時折、眉をひそめる。
「……“美的判断は利害にとらわれない快である”……
これ、どういう意味?」
未唯が目を上げずに言った。
「お、進んでるね。
どこが気になった?」
「“利害にとらわれない快”って……
なんか、恋愛の“好き”とは全く違うものに見えるから。」
未唯はページを指で押さえながら、
視線だけ僕に向けた。
その目には、
“理解したいけれど、完全に噛み合っていない”
という揺れがあった。
「たとえばね」と僕は言う。
「好きな人を見て“かわいい”って思うのは、
自分の欲望とか関心とかが関わってるよね。」
未唯は頷く。
「うん、それはわかる。
でも、それだと利害にとらわれてる気がする。」
「そう。つまり、その“かわいい”は美的判断じゃない。」
未唯は目を瞬かせる。
「……じゃあ、“美しい”って感じるのは?」
「利害から自由な“快”なんだよ。」
「……快だけど、利害の快じゃない……?」
「そう。“美”は、欲望や所有欲とは関係ない快なんだよね。」
未唯はページを見つめながら、ぽつりと言った。
「……快にも種類があるってこと?」
「あるよ。しかも、美の快は特別なんだ。」
僕は窓の外を指差す。
「ほら、あの雲。」
未唯はガラス越しに空を見た。
「なんか……淡くて、きれい。」
「その“きれい”は利害がないよね。
雲を所有したいわけでも、雲に触れたいわけでもない。」
未唯は笑った。
「触れないし。」
「でも、それを見て心が静かに動く。“快”だよね。」
未唯は雲から視線を戻し、
手元のページをなぞる。
「……“反省的判断”……?」
「うん。反省的判断は、
“これはなんで快なんだろう?”って理由を探す判断なんだ。」
「快に……理由……?」
未唯は難しい顔をする。
僕は言う。
「たとえばさ、未唯って……
僕の話を聞くとき、ちょっとだけ嬉しそうな顔する時あるよね。」
未唯は一瞬固まった。
「……え? そんな顔……してる?」
「してるよ。ほんの少しだけ。
僕の説明がわかりやすかったり、
自分が理解に近づいた時とか。」
未唯の頬がほんのり赤くなった。
「……それは、“快”なの……?」
「たぶんね。」
「……でも……なんか癪。」
「癪って……なんで?」
未唯は鉛筆をくるくる回す。
「わたしが快を感じてるって言われると……
なんか、負けた気がする。」
「誰に?」
未唯は黙った。
沈黙は“答えを探す沈黙”だった。
僕は少し声を柔らかくする。
「未唯ね、昨日言ってた“注意の偏り”のこと……
あれも快の一種なんじゃないかって思う。」
未唯は急に目を見開く。
「……やっぱり、それ言うんだ。」
「別に恋愛の快じゃないよ。
ただの、“理解が深まる時の快”。
美的判断と少し似てる。」
未唯は視線を落とす。
「……わたし、真くんに……快を感じてるの……?」
声はとても小さかった。
僕は静かに言う。
「感じてても、感じてなくてもいいよ。
ただ、もしあったら……
それは“美に近い快”だと思う。」
未唯の眉がわずかに動く。
「……なんで、“美”なの?」
「だって、利害関係ないでしょ。
未唯は僕を所有したいわけでも、
好かれたいわけでもない。」
「うん……全然……そんなのない。」
「でも、思考が揺さぶられるとき、
心がふっと動く。それは快。」
未唯は、手元のページを閉じた。
深呼吸をひとつして、
僕の方をしっかり見つめる。
「……真くん。
わたし、ずっと“快は危険だ”って思ってた。」
「どうして?」
「快があると……自律できなくなる気がするから。」
「あぁ……」
そこでようやくつながった。
未唯の中では、
「快=欲望=他律」
という等式がずっと働いていたのだ。
僕は穏やかに言う。
「未唯、それは“利害的な快”だけを見てる。」
「……じゃあ、“美の快”は違うの?」
「違うよ。完全に違う。」
未唯の目に、
昨日よりも強い光が宿った。
「……じゃあ……
わたしが真くんの話を聞いて、
“あ、理解できた”って思った時のあれは……?」
「美に近い快だよ。」
未唯は言葉を失ったように沈黙した。
しばらくして、
囁くような声が落ちてくる。
「……そんな……の……知らなかった……」
「未唯が悪いんじゃないよ。
学校の倫理は“欲望の快”しか教えないから。」
未唯の目はまだ揺れている。
でもその揺れは、
昨日までの“拒絶の揺れ”ではなく、
“快を受け入れ始めた揺れ”
だった。
**
未唯は机に置いていた鉛筆を持ち、
ノートの空白にゆっくり書き始める。
《美は利害から自由な快》
そしてその下に、
迷いながら、ためらいながら、
ひとつ言葉を足した。
《わたしにも……ある?》
僕はその文字を見て、
胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
未唯はペンを置き、
深呼吸してこちらを見る。
「……真くん。」
「うん。」
「……昨日と今日で、
わたしの中に、
“快”みたいなの……
ちょっとだけ、わかったかもしれない。」
言葉の端が震えていた。
そして、声がもう一度落ちてくる。
「……怖いけどね。」
僕は静かに首を振った。
「怖がらなくていい。
“美の快”は、未唯の自律を奪わないよ。」
未唯は、まるで確かめるように、
自分の胸にそっと手を添えた。
「……わたし、少しだけ……軽くなった。」
その言葉は、
まだ脆いけれど、
確かに新しい地平を開いていた。
未唯が初めて自覚した、
“利害にとらわれない快”。
それは──
恋愛の始まりではなく、
もっと前の、もっと静かな領域。
でもそれは確かに、
どこか遠くで微かに灯る光のように、
彼女の内側に芽生え始めていた。




