ep. 25 好きの多義性
* * *
翌日の夜、大学の帰り道。
キャンパスから駅へ続く並木道に、淡い街灯がぽつぽつと落ちていた。
僕は歩きながら、今日こそ話すべきだと腹を決めていた。
昨日の“注意の偏り”を未唯がどう受け止めたのか──
その続きを、今日のうちに確かめたかった。
駅前に着くと、ベンチに座る未唯の姿があった。
膝にノートを広げて、何かを書いている。
まるで、言葉によって自分の感情を整えようとしているようだった。
僕が近づくと、未唯はゆっくり気づいて顔を上げる。
「……真くん。」
声が少しだけ驚いていて、
少しだけ予期していたようにも聞こえた。
「帰り、一緒に歩いていい?」
未唯は数秒間の沈黙のあとで、小さく頷いた。
* * *
並木道に戻ると、木々の影が歩道を網のように覆っている。
その影の合間で、僕は切り出した。
「昨日の続きなんだけど……
“好き”って、単純じゃないよね。」
未唯はすぐに返事をしなかった。
影の上を歩くたびに、彼女の髪の先が光と闇の境目で揺れた。
「……“好き”の話、そんなに続けたいの?」
「続けたい。
僕だけが話したいんじゃなくて、
未唯自身が“避けている感情”の輪郭を、
一度ちゃんと一緒に見ておきたい。」
未唯は立ち止まった。
「……避けてなんかいない。」
「避けてるよ。」
未唯は眉を寄せた。
でも、否定の強さの中に焦りが混ざっていた。
僕は続ける。
「好きって、一つの意味じゃ言い表せないんだ。
快もあるし、価値もあるし、尊敬もあるし、
関心の偏りもあるし、依存も、承認欲求も……
全部“好き”の名前で呼ばれる。」
未唯の目が揺れた。
「……そんなふうに混ぜこぜにするから、
“好き”って言葉が嫌いなの。」
「嫌いなのは、“曖昧さ”の方でしょ?」
未唯は返事をしなかった。
図星だったからだ。
* * *
「未唯さ、好きって聞くと……
“恋愛感情”だけを思い浮かべてるよね?」
「……それ以外に何があるの?」
「僕は、未唯のこと“好き”だけど、
恋愛だけで説明できる感情じゃないよ。」
未唯の呼吸が止まる。
そして、目が僕に吸い寄せられるように向く。
「……真くん……
そういう簡単に言える言葉じゃないよ。」
「簡単じゃないから言ってる。」
「……わたし、真くんを恋愛的に好きだなんて思ってないよ。」
「知ってるよ。
でも、“好き”ってその一つだけじゃないって言いたいんだ。」
僕は歩き出しながら続けた。
「たとえば──
未唯と話すと、思考の速度が一段階上がる。
この現象そのものは、恋愛じゃ説明できないよね。」
未唯は少しだけ目を丸くした。
「……そんなこと、わたし何もしてないのに。」
「してるよ。
未唯の論理の芯が、僕の思考を刺激してるんだよ。」
未唯の耳がわずかに赤くなった。
彼女にとって、
“自分の価値が他人の思考を動かしている”という感覚は、
むしろ恋愛よりもずっと心を揺らす。
未唯は囁くように言った。
「……じゃあ、それも“好き”なの?」
「そう。
“尊敬としての好き”って言える。」
未唯はゆっくり視線を落とす。
「……他には?」
「未唯の話は、毎回僕の価値判断を揺さぶる。
『自律とは何か』『道徳法則とは何か』
そういう根本を考え直させられる。」
「……わたし、揺さぶってるつもりなんてないよ。」
「でも、揺さぶられてるんだよ。
これは“認識的刺激としての好き”だと思ってる。」
未唯は歩みを止めて、
手すりに指先を置いた。
「……わたしには、そんな価値ないよ。」
「あるよ。」
断言すると、未唯は顔を上げた。
その目が、昨日より強く揺れていた。
* * *
「それにさ、
未唯といると、感情の起伏が大きくなる。」
「……それは“好き”じゃなくて、不安定なだけ。」
「違うよ。
“情動的影響としての好き”って言える。」
未唯は困惑したように目を見開いた。
「好きって……そんなに種類あるの……?」
「むしろ、種類がない“好き”なんて存在しないよ。」
未唯は息を呑む。
僕は静かに言った。
「だからね、未唯の『真くんのこと恋愛的に好きじゃない』って言葉は、
全体のうちの一種類について語ってるだけで……
他の“好き”を否定したことにはならない。」
未唯は戸惑いの色を濃くした。
「……わたし、そんなふうに考えたこと、一度もない……」
「未唯が“好き”を嫌うのは、
『恋愛だけのことば』だと思いこんでるから。」
未唯は黙る。
その沈黙には、拒絶でも拒否でもなく、
“理解したいけれど理解が追いつかない”という躊躇があった。
* * *
駅のホームまで来た頃、未唯は小さくつぶやいた。
「……じゃあさ。」
「うん。」
「真くんの言う“好き”の中で、
わたしが持ってる可能性のある種類って……どれ?」
僕は少し微笑んだ。
この質問こそ、今日の核心だ。
「未唯自身は否定したいかもしれないけど──」
未唯が息を呑む。
「昨日の“注意の偏り”は、
“関心としての好き”のはじまりだと思う。」
未唯は目を見開いた。
「……わ、わたし……そんなつもりない……」
「ないよね。
でも“現象”って、つもりと関係なく起きる。」
未唯は唇をかんだ。
「……それって、恋愛とは違う?」
「違う。
恋愛の前に生まれる、もっと曖昧で、もっと繊細な“好き”だよ。」
未唯の目が揺れる。
戸惑いと、拒絶と、理解と、
その全部が混じった複雑な揺れ。
「……そんなの、知らなかった。」
「未唯の中に、昨日少しだけ現れたんだと思う。」
未唯は視線を落とし、
小さく首を振った。
「……わたし……どうすればいいの?」
「何もしなくていいよ。
ただ、起こった現象を拒まずに、観察するだけ。」
未唯は僕を見つめた。
長い沈黙のあと、
ゆっくり言った。
「……そんなにわたしのこと……
ちゃんと見てるんだね。」
「うん。ずっと。」
未唯は頬を赤くして、視線をそらした。
* * *
電車が到着し、扉が開く。
乗り込む直前、未唯は振り返って言った。
「……好きって……
そんなに一つじゃなかったんだね。」
その言葉は、自分に向けての呟きであり、
僕に向けた応答でもあった。
扉が閉まり、電車が動き出す。
未唯はまだ揺れていた。
でもその揺れは、拒絶ではなく──
“好きという概念の多義性”を受け入れ始めた揺れだった。
そしてそれは、
彼女の世界の輪郭が変わる第一歩でもあった。




