ep. 24 関心の偏りの謎
* * *
翌日の午後、図書館の自動ドアが開いた瞬間、
僕の視線は、いつものように“そちら”へ吸い寄せられた。
──未唯がいる。
少し離れた窓際の席で、
白い指先が静かにページをめくっている。
光の反射で輪郭が柔らかく滲んで、その姿だけが浮き上がって見えた。
どうして、こんなにもすぐ見つけられるんだろう。
人の気配が交錯する図書館で、
誰よりも先に、未唯の存在だけが網膜に飛び込んでくる。
これは、もう現象だ。
僕の意志とは別に起こる“偏り”の現象。
──理由を知りたい。
昨日、確かに未唯の中で“価値承認”が芽生えかけた。
ならば次は、この注意の偏りが何を意味するのかを考える番だ。
僕は歩み寄りながら声をかけた。
「未唯。」
彼女は小さく震えたように見えた。
ほんの一瞬だけど、確かに肩が揺れた。
注意が向いてしまった、と気づいた証拠だった。
ゆっくり顔を上げる。
「……真くん?」
声の色が、昨日より柔らかい。
自分でもその理由が分かっていない、そんな声音だ。
「ここ、座っていい?」
未唯はほんの少し迷ってから、小さく頷いた。
僕は彼女の向かいの席に座った。
**
「今日も、昨日の続き?」
未唯が聞く。
「うん。どうしても話したくて。
“関心の偏り”について。」
未唯の眉がふっと動いた。
「偏り……って、つまり“好き”のこと?」
「好きの一部、だと思う。
僕は、好きって“注意が勝手に向いてしまう現象”じゃないかと思ってる。」
「……わたしは、そんな経験あまりないんだけど。」
未唯は目線を落とし、指先で本の角を軽くなぞった。
僕は椅子に寄りかかりながら言う。
「でも、昨日……僕のこと、いつもより長く見たよね。」
未唯がびくっとした。
「……あれは……その……違うよ。」
「違っても構わない。でも、あれが偏りの一つなんだ。
意図じゃなくて、現象として起こる偏り。」
未唯は沈黙した。
感情の整理が追いついていないときの沈黙だ。
僕は言葉を続ける。
「注意って、自分で選んでるように見えて、実は選べないんだ。
刺激とか興味とか価値判断とか、いろいろな要素に引っぱられる。」
「……それって自由じゃないよね。」
「自由じゃなくていいんじゃない? 少なくとも、注意の段階では。」
未唯は首をかしげる。
「でも注意が偏るって、Neigungじゃないの?
傾向性に引っ張られてるのなら、他律でしかないよ。」
未唯の価値観の核が一瞬で顔を出す。
彼女は注意の偏りすら“倫理的観点”から見てしまう。
「Neigung と言えばそうだけど……
注意の偏り自体は善でも悪でもない、ただの現象なんだよ。」
「現象……?」
「うん。
たとえば美しいものを見ると注意が向く。
これは快の“反省的判断”としての働きだよね。
でもそれは、意図して向けてるわけじゃない。」
未唯は目を瞬かせた。
「たしかに……反省的判断の快は、理由が後からついてくる感じがある。
でも……『好き』はそれとは違うんじゃない?」
「違う部分もある。でも、境界は曖昧だと思う。」
「……曖昧なものって、普遍化できない。」
その言葉には、未唯自身への警告のような響きがあった。
彼女は曖昧さを嫌う。
曖昧さは“誤った価値判断”につながるから。
だからこそ、
好きという曖昧な感情に触れたくないのだ。
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「でもね、未唯。」
「なに?」
「昨日の僕の言葉……
“義務は自分で立てる普遍法だ”っていう未唯の考えを
ちゃんと理解したいって、僕は本気で思ってる。」
未唯の表情が止まった。
胸の奥で、何かが震えたような、そんな表情。
「……それ、本気で言ってるの?」
「本気だよ。」
未唯は視線を落とし、テーブルの木目を見つめた。
「……真くんって、変わったよね。」
「昨日の話のおかげだよ。」
未唯は静かに息を飲んだ。
その目の動きは、僕を“観察する”というより、
“価値を確かめる”ようなものだった。
気づいたのは僕だけ。
未唯の注意が、僕に偏り始めている。
しかもそれは、反射的で、本人が理解していない。
未唯は困ったように、でも少し震えた声で言った。
「……そういうふうに“変わりたい”って思うところ、
……わたしは……その……」
「その?」
「言葉にしにくいけど……“よい”ことだと思う。」
未唯の頬が淡く染まっていた。
彼女は今、
僕の“倫理的成長の兆し”を価値として認めてしまった。
それは好きではない。
でも、“好きの入り口”にある現象だ。
未唯自身はまったく気づいていない。
ただ、彼女の注意が少しだけ偏ったことは確かだった。
**
僕はゆっくり言った。
「ねえ未唯。
偏りってさ、きっと『ひとつの原因』じゃ説明できないんだよ。
価値とか快とか、美しさとか、偶然とか……
そういうのが積み重なって、注意が勝手に向く。」
「……Momente の重なりってこと?」
「そう。好きの原因は単線的じゃなくて、層構造だと思う。」
未唯は僕を見つめた。
その視線が数秒、僕から離れなかった。
「……わたし、真くんのことを……
“特別に”見てるわけじゃないよ。」
「そうだと思う。でもさ……」
僕は微笑んだ。
「数秒、さっきみたいに見つめたのは、偏りの一種なんじゃない?」
未唯は慌てて視線をそらした。
「べ、別に……!」
図書館の空気が微かに揺れた。
彼女が放った息の震えが、場の温度を変えてしまう。
未唯は必死に自分の言葉を探していた。
「……偏ってなんか……ないよ……」
「偏ってないなら、焦らないでよ。」
「そ、それは……! その……!」
未唯は口を閉じた。
反論の言葉が見つからないのだ。
その沈黙こそが答えだった。
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しばらくして、未唯は静かに立ち上がった。
「……今日は、もう帰る。」
声は小さい。
でも、その震えがすべてを物語っていた。
注意の偏りは、すでに未唯の内側で始まっている。
それは彼女の意志とは無関係な、現象としての偏り。
そしてその現象は、
好きの輪郭をゆっくりと浮かび上がらせていく。
未唯がそれに気づくのは、もっと先だ。
でも、確かに一歩進んだ。
“好き”という言葉に触れるための、微細な一歩が。
僕はその背中を見送りながら確信した。
好きは、まず注意から始まる。
そして注意は、価値によって揺らぎ、
気づいたときには感情の形を取ってしまう。
未唯がそれを理解する日は必ず来る。
ゆっくりと、確実に。




