ep. 23 快から価値へ向かう”橋”
教室の蛍光灯が落ちる直前のような、薄い唸りを立てていた。
六限が終わったあとの哲学講義室は、いつも変に静かだ。人が去ったあと、空気の中に議論の残り香みたいなものが漂う。未唯はその空気を、まるで体温で触れるかのように感じ取っているようだった。
「さっきの話、まだ続けたいの?」
未唯が言う。帰り支度をする手は止めない。教科書とノートをしまいながら、それでも僕の言葉を待つ気配がある。
「続けたいというか……今日のところは、どうしても話したくて。」
「価値承認、のこと?」
「そう。好きの核のひとつとしての“価値承認”について。」
未唯が表情を変えた。眉がほんの少しだけ寄る。
たぶん、価値という言葉が、彼女の中では「とても重いもの」だからだ。
僕は席を立たず、そのまま隣の席に身体を向けた。
「僕はさ、誰かを“好き”だと思うとき、その人の何かを価値あるものとして認めている瞬間があると思うんだよ。」
「……価値、ねぇ。」
未唯はペンケースを閉じる手を止める。
「価値判断って、そんなに簡単じゃないよ。」
「簡単じゃないから、好きも簡単じゃないんだと思う。」
「ううん。違うよ。価値判断は“判断”であって、“感情”じゃない。
──それを混ぜたら、判断は曇る。」
言い方が鋭い。
でも、それは未唯なりの誠実さだ。
彼女は、価値判断と感情を混ぜることに本能的な恐怖を持っている。
**
「でもね、真くん。価値は普遍的でなきゃだめなの。」
「普遍的?」
「うん。自分ひとりだけの好みで“価値がある”って言ってしまったら、
それはただの主観的快にすぎない。価値とは……もっと公共的で、普遍化できるものでないと。」
未唯の声は低く、でもよく通る。
“公共性”“普遍性”──それは未唯が価値を語るとき、必ず出てくるキーワードだ。
「じゃあ、僕が未唯を価値ある存在だと思うのは……違うってこと?」
未唯ははっとしたように僕を見た。黒い瞳が揺れる。
「そういう意味じゃないの。ただ……」
「ただ?」
未唯は困ったように視線を落とした。
「……“好き”って言葉が入ると、話が一気に不安定になる。
好きは主観的だし、脆いし、揺らぐもの。
だから、それを軸に価値を語ると……判断が曇る。」
**
未唯がこう言うとき、彼女は必ず自分の母の話を脳裏で思い出しているように見える。
価値判断を“間違えてはいけない”という強迫的なまでの姿勢は、家庭環境と直結しているのだろう。
僕は少し考えてから言った。
「じゃあ、価値判断の方から好きに近づくことはできないの?」
「どういうこと?」
「たとえば……相手の“行為”を見て、それが普遍化できる法則と一致していると認めたら、価値と判断する。そこから快が生まれて、好きになる。そういう順番なら……?」
未唯が沈黙する。
僕は続けた。
「実は……あの、前に未唯に言われた“義務は自分で立てる普遍法”って言葉、最近ずっと考えてて。」
未唯の瞳が、わずかに揺れた。
──その瞬間だった。
彼女の眼差しには、これまで僕に向けられたことのない“温度”が宿った。
驚きと、わずかな期待と、認めたくない承認。
その混ざり方があまりに繊細で、僕は息を飲んだ。
未唯自身は気づいていない。
たぶん、本人は言語化もできない。
でも僕には分かった。
未唯は今、
僕の“変わろうとする姿勢そのもの”を価値として見てしまったのだ。
**
未唯はあわてて視線をそらした。
「……それは……えっと……うん。
考え方としては、間違ってないと思う。」
「本当?」
「その……義務に基づいた行為は、確かに価値判断の対象になりうるから。
普遍性を持つ可能性があるし……」
未唯の声は少し震えている。
いつもは淡々と、冷静に言葉を紡ぐ彼女が、だ。
「でも、だからって……“好き”が正当化されるわけじゃないよ。」
「わかってる。でも、そこに可能性はあるんじゃない?」
未唯は言葉を失う。
僕の問いに反論できない。
それはつまり、彼女が僕を“価値承認”してしまった証拠だった。
**
「……あのね、真くん。」
「うん。」
「価値承認って、怖いんだよ。間違えたら、全部が崩れる。
だから……簡単に認めたくない。」
「未唯は、僕のこと……認めた?」
未唯は何度も瞬きをした。
その瞬きの速さが、答えそのものだった。
「……いまは……まだ、言えない。」
「でも、少しは……?」
未唯は答えず、ノートを抱えて立ち上がった。
しかし僕の方を向くまでの時間が、いつもより長かった。
「今日は……ここまでにしよう。」
声は小さかった。でも、その小ささが、彼女の揺れを証明していた。
未唯は教室を出る。
僕はその背中を見送りながら、胸の奥に静かな熱が灯るのを感じていた。
価値承認。
たしかにそれは簡単じゃない。
でも──
未唯はいま、初めて僕の“価値”を見てしまった。
そして気づかないまま、それを恐れている。
気づいているのは、僕と読者だけ。
だからこそ、この議論はまだ続く。
彼女が“好き”という言葉に触れるまでの距離は、思っていたよりずっと近いのかもしれない。




