ep. 22 快楽の個別性
未唯と向かい合って喋るとき、僕はいつも自分の言葉がどこか半分だけ宙に浮いているような、奇妙に落ち着かない感覚に襲われる。机の上のマグカップは温かいのに、会話の温度だけがなぜか不安定だ。彼女の言葉が冷たいわけではない。ただ、届き方がどこか特殊なのだ。真っ直ぐ届くのではなく、必ず一度、彼女の内側のどこかを反射してから返ってくる。その反射の質が、僕にはいつまで経っても読めない。
「快楽って、普遍的なものじゃないの?」僕はそう問いかけた。
未唯はストローを指でつまみ、小さく引き寄せた。「普遍的“ではある”と思うよ。でも……それだと、あなたの言う“好きの普遍性”と同じ話になっちゃうでしょ?」
「いや、違うと思う。僕が言っているのは……たとえば食べ物の好みや、声の響きとか、そういう“個別の刺激”から生まれる快楽は人それぞれでも、その根っこにある反応の構造は共通している、っていう話で……」
「構造は普遍、内容は個別、っていうやつだね。」
「うん。」
未唯は一瞬だけ微笑んだ。微笑んだ、というほど明確でもなく、たぶん、笑うことを途中で思いとどまったような表情だった。
「あなたは、快楽を“人間一般の構造”として扱いたがる。でも私にとって、快楽は……いつも、“自分がそこから排除されている”感じがするんだよ。」
その言葉は、僕の胸に重たく沈んだ。
「排除、ってどういう意味?」
未唯は麦茶を少し飲み、透明な氷がわずかに揺れた。彼女は話す前に必ず、ひとつ呼吸を整える癖がある。感情を言葉にすることに慎重で、言葉の形が正しく整うまで絶対に口にしない。
「子どもの頃、何をしていても“楽しい”と思った経験がほとんどなかったの。母はずっと働いていたし、家では“泣かないで、迷惑になるから”ってよく言われていて。感情を出すこと自体、あまり許されていなかったんだと思う。」
僕は息を呑んだ。
未唯の過去について、断片では知っていたが、ここまで直接的に語られたのは初めてだった。
「だから……快楽って言われても、実感が伴わないことが多い。あなたが“綺麗だ”とか“好きだ”とか“この味が美味しい”って言うとき、その瞬間に感じているなにかを、私はあまり持っていない気がして。」
「持ってないわけじゃないと思う。少なくとも、君が今日“麦茶が美味しい”って笑ったの、僕は見たよ。」
「……あれはね、味じゃなくて、その……」
未唯は言葉を探すように宙を見つめた。「あなたが、すごく真剣な顔で“飲んでみて”って言ったから。なんていうか……そこに、ちょっとだけ“救われた”気がしただけ。」
僕は胸が熱くなるのを感じた。
「それって、快楽だよ。」
「そうかもしれない。でも、あなたの言う“好きの普遍構造”とは違う。私はいつだって、“誰かの行為”を仲介しないと快を感じられないんだと思う。」
「それは、個別性じゃなくて……ただの違いだよ。」
「でもその違いが、私にとっては“壁”なんだよ。」
未唯は静かに続けた。
「快楽の個別性って、多分、私みたいな人間にはすごく厄介なの。快楽が個別なら、“誰と関わるか”で人生が変わってしまう。私はそれが怖い。感情を誰かに預けてしまうことになるから。」
「君は……誰かに預けたくない?」
「うん。預けたことがないから。預け方も知らない。」
その言葉は、彼女の核心に少し触れたような感覚があった。
未唯は、感情を預けるという経験を人生のどこかで拒否し続けてきたのだ。
僕が「好きだ」と言ったとき、彼女が即座に反応できなかったのは、そのためかもしれない。
「でもさ」と僕はゆっくり口を開いた。「個別の快楽って、それぞれの人が自分の歴史の中で身につけた“反応の癖”みたいなもので……君が僕の言葉から快を感じるなら、それは君の歴史がそうさせてるんじゃない?」
未唯は首を横に振った。「違うよ。私は、あなたの優しさや熱を借りて、ようやく“何かが動く”だけ。それは、“私の快楽”じゃなくて、“あなたの行為”への反応なんだよ。」
「でも反応してるのは君じゃないか。」
「そうだけど……変な話だけど、私は“私の快楽”ってものをまだ持っていない気がするの。」
「快楽を自分のものとして感じられないってこと?」
「うん。いつも、“私のものじゃない”感じがする。楽しいと思うときも、それは“誰かが私に与えた出来事”であって……私が主体的に感じてるのか、よく分からない。」
未唯の声は、いつもより少し弱かった。
「快楽って、主体の内側で生まれるものだよね。」
「そうだと思う。」
「じゃあ私は、まだ主体が完成していないのかも。」
その言葉は、彼女の自己像を深く示していた。
未唯はいつも、自分を「未完成な存在」と呼ぶ。
まだ自分の“義務”を定めていないからだ、と。
「未唯、君は自分を過小評価しすぎだよ。」
「そんなことない。あなたのように、世界に“快”を見つけることができないだけ。」
「快楽って、ただの差異の認識だよ。違いを知るから快が生まれる。君は今、僕と話している。この違いそのものがすでに快の種だと思う。」
「うーん……」
未唯はコップを両手で包み込み、目線を伏せた。「あなたの言葉はきれいすぎて、私には少し眩しい。」
「眩しい?」
「うん。だってあなたは、自分が快を感じている理由を言語化できる。でも私は……その感覚をそもそも持っていないところから出発してる。スタート地点が違うんだよ。」
「それでも、少しずつ理解していけると思う。」
未唯は小さく笑う。「そうだね。でも……もし快楽が個別で、好きがその上に積み重なるものだとしたら……私は“好き”を理解するまで遠いかもしれない。」
「遠くてもいいよ。一緒に歩けば。」
未唯の手が、ほんの一瞬だけ止まった。
彼女は微かに視線を上げ、僕を一度だけ見つめた。
まるで、確かめるように。
「真は……本当に、そんなふうに思ってるの?」
「思ってるよ。」
「どうして?」
「君の言葉にはいつも、僕にない視点があるから。君が快を感じられない理由、その言葉に僕が動かされてる。それって……すごく個別的なことじゃない?」
未唯は目を細めた。
それが肯定なのか、否定なのかは分からない。
でも、彼女は僕の言葉を“拒絶”しなかった。
「ねえ、真。」
「うん。」
「快楽の個別性について話すとしたら……たぶん、私の個別性は、“快を感じにくいこと”そのものなんだよ。」
「なら、それも個別性だ。」
「そう言えるあなたが羨ましい。」
「羨ましいなら、一歩だけ寄ってきてよ。」
「……一歩だけなら。」
未唯のその返事は、確かに“快”の気配を帯びていた。
ただしそれは、僕が想像したような温かい感情ではなく、
もっと淡く、もっと慎重で、
それでいて、彼女にしか持てない特有の震えをともなった
“個別の快”だった。
その瞬間、僕はようやく理解した。
――快楽の個別性とは、感情を“感じる側の歴史”が作り出す固有の構造であり、
未唯の個別性は、
快を“遅れて感じる”という、彼女だけの特殊なリズムなのだ。
そしてそのリズムに、
僕の言葉が少しだけ響いたのだとしたら――
それこそが、彼女の“個別の快楽”の最初の芽生えなのだと思えた。




