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好きがわからない君へ告白したら、カント倫理学でフラれました。 ――それでも僕たちは、自律から始まる恋を続けていく  作者: 目田 不識(めた・ふしき)
第2章 快楽の形式と内容

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ep. 22 快楽の個別性

 未唯と向かい合って喋るとき、僕はいつも自分の言葉がどこか半分だけ宙に浮いているような、奇妙に落ち着かない感覚に襲われる。机の上のマグカップは温かいのに、会話の温度だけがなぜか不安定だ。彼女の言葉が冷たいわけではない。ただ、届き方がどこか特殊なのだ。真っ直ぐ届くのではなく、必ず一度、彼女の内側のどこかを反射してから返ってくる。その反射の質が、僕にはいつまで経っても読めない。


 「快楽って、普遍的なものじゃないの?」僕はそう問いかけた。

 未唯はストローを指でつまみ、小さく引き寄せた。「普遍的“ではある”と思うよ。でも……それだと、あなたの言う“好きの普遍性”と同じ話になっちゃうでしょ?」


 「いや、違うと思う。僕が言っているのは……たとえば食べ物の好みや、声の響きとか、そういう“個別の刺激”から生まれる快楽は人それぞれでも、その根っこにある反応の構造は共通している、っていう話で……」


 「構造は普遍、内容は個別、っていうやつだね。」


 「うん。」


 未唯は一瞬だけ微笑んだ。微笑んだ、というほど明確でもなく、たぶん、笑うことを途中で思いとどまったような表情だった。


 「あなたは、快楽を“人間一般の構造”として扱いたがる。でも私にとって、快楽は……いつも、“自分がそこから排除されている”感じがするんだよ。」


 その言葉は、僕の胸に重たく沈んだ。


 「排除、ってどういう意味?」


 未唯は麦茶を少し飲み、透明な氷がわずかに揺れた。彼女は話す前に必ず、ひとつ呼吸を整える癖がある。感情を言葉にすることに慎重で、言葉の形が正しく整うまで絶対に口にしない。


 「子どもの頃、何をしていても“楽しい”と思った経験がほとんどなかったの。母はずっと働いていたし、家では“泣かないで、迷惑になるから”ってよく言われていて。感情を出すこと自体、あまり許されていなかったんだと思う。」


 僕は息を呑んだ。

 未唯の過去について、断片では知っていたが、ここまで直接的に語られたのは初めてだった。


 「だから……快楽って言われても、実感が伴わないことが多い。あなたが“綺麗だ”とか“好きだ”とか“この味が美味しい”って言うとき、その瞬間に感じているなにかを、私はあまり持っていない気がして。」


 「持ってないわけじゃないと思う。少なくとも、君が今日“麦茶が美味しい”って笑ったの、僕は見たよ。」


 「……あれはね、味じゃなくて、その……」

 未唯は言葉を探すように宙を見つめた。「あなたが、すごく真剣な顔で“飲んでみて”って言ったから。なんていうか……そこに、ちょっとだけ“救われた”気がしただけ。」


 僕は胸が熱くなるのを感じた。

 「それって、快楽だよ。」


 「そうかもしれない。でも、あなたの言う“好きの普遍構造”とは違う。私はいつだって、“誰かの行為”を仲介しないと快を感じられないんだと思う。」


 「それは、個別性じゃなくて……ただの違いだよ。」


 「でもその違いが、私にとっては“壁”なんだよ。」


 未唯は静かに続けた。


 「快楽の個別性って、多分、私みたいな人間にはすごく厄介なの。快楽が個別なら、“誰と関わるか”で人生が変わってしまう。私はそれが怖い。感情を誰かに預けてしまうことになるから。」


 「君は……誰かに預けたくない?」


 「うん。預けたことがないから。預け方も知らない。」


 その言葉は、彼女の核心に少し触れたような感覚があった。

 未唯は、感情を預けるという経験を人生のどこかで拒否し続けてきたのだ。

 僕が「好きだ」と言ったとき、彼女が即座に反応できなかったのは、そのためかもしれない。


 「でもさ」と僕はゆっくり口を開いた。「個別の快楽って、それぞれの人が自分の歴史の中で身につけた“反応の癖”みたいなもので……君が僕の言葉から快を感じるなら、それは君の歴史がそうさせてるんじゃない?」


 未唯は首を横に振った。「違うよ。私は、あなたの優しさや熱を借りて、ようやく“何かが動く”だけ。それは、“私の快楽”じゃなくて、“あなたの行為”への反応なんだよ。」


 「でも反応してるのは君じゃないか。」


 「そうだけど……変な話だけど、私は“私の快楽”ってものをまだ持っていない気がするの。」


 「快楽を自分のものとして感じられないってこと?」


 「うん。いつも、“私のものじゃない”感じがする。楽しいと思うときも、それは“誰かが私に与えた出来事”であって……私が主体的に感じてるのか、よく分からない。」


 未唯の声は、いつもより少し弱かった。


 「快楽って、主体の内側で生まれるものだよね。」

 「そうだと思う。」

 「じゃあ私は、まだ主体が完成していないのかも。」


 その言葉は、彼女の自己像を深く示していた。

 未唯はいつも、自分を「未完成な存在」と呼ぶ。

 まだ自分の“義務”を定めていないからだ、と。


 「未唯、君は自分を過小評価しすぎだよ。」


 「そんなことない。あなたのように、世界に“快”を見つけることができないだけ。」


 「快楽って、ただの差異の認識だよ。違いを知るから快が生まれる。君は今、僕と話している。この違いそのものがすでに快の種だと思う。」


 「うーん……」

 未唯はコップを両手で包み込み、目線を伏せた。「あなたの言葉はきれいすぎて、私には少し眩しい。」


 「眩しい?」


 「うん。だってあなたは、自分が快を感じている理由を言語化できる。でも私は……その感覚をそもそも持っていないところから出発してる。スタート地点が違うんだよ。」


 「それでも、少しずつ理解していけると思う。」


 未唯は小さく笑う。「そうだね。でも……もし快楽が個別で、好きがその上に積み重なるものだとしたら……私は“好き”を理解するまで遠いかもしれない。」


 「遠くてもいいよ。一緒に歩けば。」


 未唯の手が、ほんの一瞬だけ止まった。

 彼女は微かに視線を上げ、僕を一度だけ見つめた。

 まるで、確かめるように。


 「真は……本当に、そんなふうに思ってるの?」


 「思ってるよ。」


 「どうして?」


 「君の言葉にはいつも、僕にない視点があるから。君が快を感じられない理由、その言葉に僕が動かされてる。それって……すごく個別的なことじゃない?」


 未唯は目を細めた。

 それが肯定なのか、否定なのかは分からない。

 でも、彼女は僕の言葉を“拒絶”しなかった。


 「ねえ、真。」

 「うん。」

 「快楽の個別性について話すとしたら……たぶん、私の個別性は、“快を感じにくいこと”そのものなんだよ。」


 「なら、それも個別性だ。」


 「そう言えるあなたが羨ましい。」

 「羨ましいなら、一歩だけ寄ってきてよ。」


 「……一歩だけなら。」


 未唯のその返事は、確かに“快”の気配を帯びていた。

 ただしそれは、僕が想像したような温かい感情ではなく、

 もっと淡く、もっと慎重で、

 それでいて、彼女にしか持てない特有の震えをともなった

 “個別の快”だった。


 その瞬間、僕はようやく理解した。


 ――快楽の個別性とは、感情を“感じる側の歴史”が作り出す固有の構造であり、

 未唯の個別性は、

 快を“遅れて感じる”という、彼女だけの特殊なリズムなのだ。


 そしてそのリズムに、

 僕の言葉が少しだけ響いたのだとしたら――

 それこそが、彼女の“個別の快楽”の最初の芽生えなのだと思えた。

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