ep. 21 快楽の普遍性
大学の中庭に、薄く冬の匂いが混じり始めた風が吹いていた。紅葉が残る枝がわずかに揺れ、その下で学生たちが雑談しながら歩いていく。そんな昼下がり、真はベンチの端に腰を掛け、ひとつ深く息を吸い込んだ。これから未唯と話すことになる。昨日の講義後、未唯から「少し話したい」とメッセージが来たのだ。
未唯が自分から話したいと言うのは珍しい。というより、ほとんど無い。真にとってその事実だけで、彼女が抱えているものの重さが察せられる。恋でも、議論でもない。もっと根本的な問題──「好き」の構造の話を続けるための“第二ラウンド”だと感じていた。
未唯が姿を現したのは、真がもう何度か深呼吸を終えた頃だった。ベンチに近づく未唯は、今日は黒いコートに灰色のマフラーというシンプルな装いで、表情もまたいつもの落ち着いた調子のままだ。しかしその目の奥には、かすかな緊張が走っていた。
「待たせた?」
「いや、今来たところ」
形式的なやり取りが続く。それでも真は未唯の細かな仕草に気を配ってしまう。歩幅、声のトーン、マフラーを整えた指の動き。そのどれもが、真にとっては“注意の偏り”として立ち上がる。
未唯は真の隣に座り、少し間を置いてから取り出したノートを膝に置いた。その第一ページに大きく書かれていたのは、昨日まで二人が議論していたテーマだった。
「快楽の普遍性と個別性」
「話を続けたいんだけど……今日は“快楽”の方から整理したいの」
「快楽から?」
「うん。“好き”を定義しようとするなら、まず一番土台になるのは快楽の構造だと思うから」
未唯の声は静かでありながら、そこには学者の語りに近い硬さがあった。真はその語調を聞きながら、彼女がこの数日でどれほど真剣に考えてきたかを悟った。
未唯はペンを指に挟み、丁寧に話を続けた。
「真くん、快楽ってね、人間なら誰でも持ってる“普遍的な能力”なんだよ。快を感じる能力、言い換えれば『快楽の形式』そのものは、文化や個性に依らない。これは人間一般に備わってるもの」
「快楽そのものは普遍、ってこと?」
「そう。これは心理学的にも哲学的にも共通した考え方。たとえば──寒い日に温かい飲み物を飲んで“ほっとする”とか、柔らかい布団で眠ることが“心地いい”とか。そういう反応は、ほとんどの人間に共通してる。これは個性じゃなくて、生得的な感受性に近い」
真は頷きながら、未唯の言葉を頭の中で噛み砕く。未唯がこうやって説明すると、どこか講義を受けているような気分になる。しかし真にとってその心地よさもまた“快楽”の一種だった。
「でもね、ここからが大事なの。“どの対象に快を感じるか”っていう部分は、完全に主観的で個別的なの」
「たとえば……俺が未唯を見ると、なんか嬉しくなるとか?」
その言葉に、未唯はわずかに眉を動かした。驚いたわけでも、拒絶でもない。ただ真の言葉を“データ”として受け取ったような顔つきだった。
「そう、それも個別的な快の例。ただ、真くん。今のは“快の表出”だけど、その背後にはいろんな条件がある。出会ったタイミングとか、昨日の会話とか、好みの容姿とか……いろんなMomente(条件因)が重なって、その快が生じている」
「Momente……一つじゃない、複数の条件が重なるやつか」
「そう。それが好きの因果構造にも繋がる。でも今日は、その前段階の“快楽の普遍構造”をちゃんと整理しておきたかったの」
未唯はノートを真へ傾ける。そこにはシンプルでありながら精密な二つの項目が並んでいた。
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【快楽の普遍構造】
1.快楽の形式(普遍的)
2.快楽の内容(主観的・個別的)
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「これが“好き”の一番奥にある基盤になる。快楽を感じる能力そのものは誰にでもある。でも何を快と感じるかは完全に主観。ここを区別しないと、好きの議論は混乱する」
未唯は一拍置き、真の反応を待った。真はその静寂に、わずかに焦りを感じながらも、自分なりに整理して言葉を紡ぐ。
「つまり、快楽は人間に普遍的に備わってるけど、俺が未唯の声を聞くと嬉しくなる、みたいな“特定の快”は俺固有のもの、ってことか」
「うん、そういうこと。真くんにとって私は“快を喚起する対象”なんだろうけど、それは普遍的じゃない。誰もが同じように感じるわけじゃないってこと」
「それは……そうだな」
真は軽く視線を落とす。たしかに、未唯という存在が自分の心を揺らす理由は、普遍性よりも「俺個人の感受性」に依存している。
だがその意識が、逆に胸へ鈍い痛みを生んだ。
──未唯には、俺の存在は快を与える対象じゃないのかもしれない。
その思いが心の底に沈むように広がる。しかし未唯は真の沈黙を責めることなく、むしろ淡々と話を続けた。
「でもね、普遍性があるってことは重要なんだよ」
「どうして?」
「快楽そのものが普遍的じゃなかったら、“好き”という言葉に一般性なんて生まれない。私たちが議論できるのは、“快を感じるという形式が全人類に共通している”からなんだよ」
真の胸に、わずかな光が差したように感じられた。
「つまり、未唯も誰かに快を感じる可能性はあるってこと?」
その問いに、未唯はしばらく答えなかった。風がマフラーを少し揺らし、木々の枝が影を落とす。未唯はそれを見上げるようにしてから、静かに言った。
「……うん。あるよ。私には“好きが分からない”って言ったけど、快楽の形式は私にも備わってる。それは否定できない」
「……そうか」
「ただ、私にとってその“快の内容”がどう形になるのかは、まだわからないの」
その言葉は、真にとって救いでもあり、同時に彼女自身が抱える深い課題の証でもあった。未唯は“快を感じることができない”わけではない。感じ方がわからず、その対象も不明なだけだ。
──これはまだ閉ざされていない。
真はそう確かめるように手を握る。
「真くん」
「ん?」
「快って、ね。とても厄介なんだよ」
「どういう意味?」
「快は、本来なら自分の意思で選べるものじゃない。でも人間は“選びたい”と思う。自分の意志で好きになり、自分の意志で好きじゃなくなる。……そんなふうに錯覚してしまうの」
未唯の目が、わずかに悲しみを湛えて揺れる。
「でも快は、与えられるものなんだよ。世界の側から」
その言葉は、真の胸を撃ち抜いた。
未唯は快を感じることができる。だがその快が“誰に向くか”を、彼女は自分で決められないと感じている。
だからこそ──
真がどれだけ未唯を見つめても、未唯の心が動かない理由が理解できた。
しかし同時に、真の胸には別の感情も芽生えた。
──与えられるものなら、与えられる瞬間がいつか来る。
それは希望とも呼べる感情だった。
「じゃあ、未唯は……快をどう扱いたいと思ってる?」
「まだわからない。ただ、快の普遍性と個別性を理解しておかないと、好きの議論は進められない。それは確かだから」
未唯は静かにノートを閉じた。
「次は“快と価値の関係”を考えたい。真くんが言ってた“価値承認としての好き”は、快の上に乗る概念だから」
「わかった。続けよう」
そのとき、中庭に吹いた風が二人のコートを揺らした。
冬の前触れの冷たさの中で、真はひとつだけ確信する。
──未唯の“快の形式”はたしかに存在している。
──いつかその内容が、俺に向けられる可能性は消えていない。
その思いを胸に、真はそっと未唯の横顔を見つめた。
未唯は、風の中、ただ静かに前を見つめていた。




