ep. 20 二人のあいだに生まれた、小さな前進
翌日の午後。
真がいつものように図書館に向かうと、
窓際の席で未唯がノートを広げていた。
春の陽光が差し込み、
未唯の横顔の輪郭が柔らかく光って見える。
その姿を見つけた瞬間、
真の胸は、昨日の夜とは違う意味でざわついた。
(……話さなきゃ。
どう話すべきかは、もう決めたんだ)
真はゆっくりと近づき、
未唯の前の席に立つ。
未唯が顔を上げる。
驚いたように目を瞬かせ、
しかしすぐに小さく微笑んだ。
「あ……広曽木くん。
昨日ぶり、だね」
その優しい呼びかけが、
なぜこんなにも胸に沁みるのか。
真はそれを言葉にできなかった。
「座ってもいい?」
「うん、どうぞ」
未唯はノートを少し横に寄せ、
真のために机のスペースを空けてくれる。
真は椅子を引き、
静かに座った。
***
二人のあいだに、
一瞬、言葉のない時間が流れた。
しかし昨日と違い、
その沈黙は痛みを伴わなかった。
むしろ、
互いの呼吸を整えるための
静かな準備のように思えた。
真が口を開く。
「昨日の……話なんだけど」
未唯は少し緊張したように姿勢を正した。
「うん……」
「僕ね、ちゃんと考えたんだ。
昨日は勢いだったけど、
今は少し違う気持ちになってる」
未唯はまっすぐ見つめてくる。
その視線に射抜かれないよう、
真は少しだけ目線をずらした。
「昨日……“揺れた”って言ってたよね」
未唯は頷く。
「うん。言っちゃったね。
よくわかんない、あれ」
「わかんなくていいと思うよ」
真はゆっくりと言葉を紡いだ。
「僕も、“好き”って何かって思い知ったから。
昨日までは、快とか関心とか……
そういう表面的な要素で考えてた。
でも昨日の君の話を聞いて、
その奥にある“志向性”を感じたんだ」
未唯は目を瞬かせた。
「志向性……?
あの、現象学の……?」
「そう。
意識は常に“何かへ向かう”ってやつ。
君の“わからなさ”に触れて、
僕の意識はそこに向かっていく。
それが、自分でも驚くほど静かで……
でも、強かった」
言いながら、自分の鼓動が少しだけ速まっているのに気づく。
未唯は口元をおさえ、
少し考え込むように下を向いた。
「……広曽木くんって、すごいね」
「え?」
「普通、そんなふうに考えられないよ。
だって……“好き”をそんなに細かく分ける人、
初めて見たもん」
「まあ、哲学科だし」
「ううん。
哲学科だからじゃなくて……
広曽木くんだからだよ」
その言葉が胸にまっすぐ刺さった。
(危ない……これ、また好きが暴走するやつだ)
真は心の中で自制する。
昨日の反省を踏まえ、
言うべきことだけを言おうと決めていた。
「だから……昨日みたいに急いだりしない。
君のペースでいい。
僕は、君の考えを一緒に整理したいんだ」
未唯は不思議そうに真を見る。
「……どうして、そんなふうに思えるの?」
真は即答できなかった。
なぜならその理由は、
“好き”という言葉の外側にあるものだからだ。
(昨日の僕には絶対に言えなかった答えだ)
真はゆっくり息を吸い、言った。
「……君が、君自身を理解しようとしてるからだよ」
未唯が目を見開く。
「君は“好きがわからない”って言った。
でもそれを投げ出さなかった。
“分からない”ことを大事にして、
そのまま抱えていた。
僕は……その姿がすごく綺麗だと思ったんだ」
未唯は言葉を失っていた。
ほんの少しだけ目を伏せ、
その視線が震えている。
「……そんなふうに、見えるんだ」
「うん。
僕には、そう見えた」
未唯はしばらく沈黙したあと、
ぽつりと呟いた。
「……ありがとう」
その一言は、
昨日の拒絶の痛みを
静かに溶かし始める力を持っていた。
***
「ねえ、広曽木くん」
「ん?」
「……もしさ、
私が“好き”ってものを理解できたら……
そのとき、もう一度聞いてくれる?」
真の胸が跳ねた。
しかし、昨日とは違う。
飛び上がるような衝動ではない。
たしかに胸に沈んでいく、
穏やかな熱だ。
「もちろんだよ。
そのときは……
昨日よりもっとちゃんと伝える」
未唯は小さく笑った。
「じゃあ……
私、勉強するね。“好き”のこと」
「うん。
一緒に考えよう」
その瞬間だった。
二人のあいだに、
一歩だけ、確かに前進が生まれた。
恋ではなく、
友情でもなく、
哲学的対話という名の
独自の関係の芽が育ち始めたのだ。
***
図書館を出る頃には、
夕日が差し込んで、
キャンパスの床に長い影を落としていた。
「……なんか、今日の広曽木くん、優しいね」
「そう?」
「うん。
昨日の広曽木くんは……
ちょっと怖かったから」
「怖い?」
「なんか、勢いで全部飲み込まれそうで。
今日の方が……ちょうどいい感じ」
真は苦笑した。
「勢いだけじゃダメなんだな」
「うん。“好き”って、勢いじゃ測れないよね」
「そうだね」
二人は並んで歩き、
校舎の影を踏みながら笑った。
真の胸の奥で、
昨日から形を変えた“好き”が
静かに根を張り始めていた。




