ep. 2 些細な会話が始まる場所
その日の夕暮れは、東京の秋らしく乾いていた。大学構内を抜ける風はほどよく涼しく、木々の隙間から差し込む橙色の光が、建物の壁面に薄い影を刻んでいる。授業を終えた学生たちのざわめきが、無数の波のようにキャンパスを満たし、それが次第に遠ざかっていくにつれ、真の足音だけが舗装された道に控えめに響き始めた。
図書館に向かうつもりだった。いつも通り、ゼミで気になった点を文献で補足し、整理し、まとめる。そのルーティンは半ば儀式に近いものだった。だが今日はどういうわけか、その儀式に向かう歩みが自然と緩んでいた。
――理由は分かっている。
さっきのノートの一行だ。
「自由=自分で自分に義務を課すこと?」
あの文字はもう消えていたが、脳内にしつこく残像を保っていた。書いた本人の声が聞こえたわけでも、表情を見たわけでもない。ただ紙に刻まれた弱々しい線だけで、そこに漂う逡巡と、不器用な誠実さが伝わってきた。
哲学の問いを“自分の問題として”書く字だった。
しかも、線を引いたあとにまだ迷っている字だった。
気づけば、真は携帯を取り出し、講義スケジュールを開いていた。今日の三限で使用された教室を確認するためだ。放課後になると、ゼミ室はしばしば次のサークルの会議に使われる。その前にノートを閉じて出ていった彼女が、今どこにいるのかふと気になった。
――いや、気にする必要なんて。
頭の中で否定形が動いたが、足は自然と中庭の方へ向かっていた。視界の端に、誰かの黒髪が風に揺れた。小柄な後ろ姿がベンチに腰掛け、ページをめくっている。
近づくにつれ、その背中が確信に変わった。
大都乃未唯だった。
真はあまり深く考えないようにして、歩幅のリズムを整えた。突然話しかければ怪しまれるだろうし、唐突にならない距離感を計る必要がある。合理的に、さりげなく。少なくとも表面上は。
ちょうど良い距離に差しかかったところで、彼女がふと顔を上げた。視線がぶつかる。驚いたように瞬きし、すぐにノートを閉じた。
「あ……広曽木くん?」
「うん。さっきの続きでも考えてた?」
「え……続き?」
頬に小さな影が生まれた。どうやら意図を読み取れなかったらしい。真は慌てて付け加えた。
「いや、ノートに“自由と義務”の話を書いてるのが見えたから」
「あ……見えちゃってたんだ」
未唯は、苦笑するように眉を寄せた。その仕草が、子どもが見られたくない日記を読まれたときの反応に似ていた。
「ごめん。盗み見したつもりはないんだけど」
「ううん。別に、気にしてないよ。むしろ……恥ずかしいというか、変なこと書いてたなって」
「変じゃないよ」
「え?」
「むしろ、ちゃんと考えてる字だった。質問していい内容だったと思う」
未唯は少しだけ肩を縮め、視線を膝の方へ落とした。
「……わたし、言語化が苦手なんだよね。頭の中に霧みたいなのがあって、そこに形がある気はするんだけど、その形が何なのか、うまく取り出せなくて」
「霧の奥に構造がある感じ?」
「そう……そうかもしれない」
真は頷いた。
自分も似た感覚を持っていた。ただ、自分の場合はその構造が最初から“見えてしまう”。問題はそれが速すぎるせいで、他人との間にズレを生むことだ。
「言葉は後から追いつくものだから」
自分で言いながら、これは他人にかける言葉というより、自分自身への慰めに近いと気づいた。
「広曽木くんも、そんな感じなの?」
「いや……俺はどちらかというと、まず形が見えて、そのあとで言葉を当てはめるタイプ。だから言葉に困ることは少ないけど、その分、他の人のペースが測りづらくて」
「それ、ちょっと分かるかも」
未唯は指先でノートをなぞりながら続けた。
「でも、わたしはその“形”が見える直前で、いつも霧に迷う。多分、それが自分の弱さなんだと思う」
「弱さじゃないよ」
気づいた時には、言葉が出ていた。
“慰め”のつもりではなかった。ただ、そう言うべきだと思った。
未唯は、驚いたように真を見た。
その視線には警戒心はなかった。ただ、誰かに肯定されることに慣れていない人の、反射的な戸惑いがあった。
「俺は、形が見えるけど、感情は分からないことがある。むしろそっちの方が……厄介だと思う」
未唯は小さく息をのんだ。
「感情……?」
「そう。恋愛感情とか」
言ってから、真は自分の発言の危うさに気づいた。これは踏み込みすぎだ。会話の文脈から逸脱した。未唯の顔に影が差したように見えるのも当然だ。
「ごめん。変なこと言った」
「……ううん」
未唯は首を横に振った。
「わたしも……分からないから」
「好きって言葉、だよね」
「うん。周りの友達は普通に使うし、恋愛の話もするけど……わたしは“その感情がどれなのか”が分からない。どれが本物で、どれが思い込みなのか」
その言葉は、真の胸に微かな痛みを残した。
“本物かどうか”という基準で感情を測ろうとする人間。
それは、哲学に頼るには若すぎる、しかし哲学を知らなさすぎるわけでもない人間の目だ。
「それ、分かる気がするよ」
真は言った。
ただし、それは“分かったふり”ではなかった。
「俺も、自分から誰かを好きになったことがない。少なくとも、胸が熱くなるとか、感情が先に走るとか……そういうことは経験がなくてさ」
「……本当に?」
「本当」
会話が一度途切れた。
その沈黙は重くなく、むしろどこか柔らかい間だった。
中庭の噴水がわずかに光を反射する。風が雑木林を通る音が、ゆっくりと二人の間に流れ込む。
未唯が、おそるおそる口を開いた。
「……広曽木くんは、恋愛をどう定義してるの?」
「恋愛の……定義?」
「うん。定義しないと理解できないんだよね。わたし、自分の感情だけじゃ判断できなくて。だから……誰かの“定義”が聞きたい」
真は少しだけ息を吸い込んだ。
その問いは、彼がもっとも好きで、もっとも答えを持っていない領域だった。
だからこそ――気づかぬまま、真は初めて“彼自身の言葉”で答えようとしていた。
「恋愛は……」
口の中で言葉を組み替え、慎重に並べ替える。
「“相手の存在が、思考の回路に割り込んでくる現象”だと、俺は考えてる」
未唯が小さく瞬きをした。
「割り込んで……くる?」
「そう。別に呼んでないのに、ふとした瞬間にその人のことが浮かぶ。概念でも、義務でも、構造でもなく……“誰か”が思考の中心に入ってくる。それを排除しようとしても、また戻ってくる」
声が少しだけ震えた。
それは真の中に、自分でも気づかぬ“予兆”がすでに始まっていたからだ。
「それが起こると……俺は多分、それを“好き”と呼ぶんだと思う」
未唯は唇を噛んだ。
真の言葉を反芻しようとしている顔だった。
そして、そっと言った。
「……それ、いいね」
「え?」
「わたしには分からないけど……そういう“割り込み”って、いつか分かるのかなって思う」
その時、真は初めて自覚した。
今まさに、自分の頭の中に“割り込み”が起きていることを。
未唯の声、未唯の手、未唯の字。
それらが、構造でも義務でもなく、“個体としての誰か”として存在し始めている。
だがその気づきは、まだ言葉にならなかった。
真はただ、曖昧に笑みを返すしかなかった。
夕陽は沈みかけ、キャンパスの影は長く伸びる。
その伸びた影の上で、二人の影がほんのわずかに重なったことに、どちらも気づいていなかった。




