ep. 19 真の独白 ― 好きの再検討と彼女の“ざわめき”が胸に落とした影と光
未唯が語った“ざわざわ”という言葉が、
講義室を出てからも真の頭の中に残っていた。
階段を降りながら、
真は自分の胸の奥を探るように呼吸をした。
(ざわざわ、か……)
その言葉ひとつで、
真の心臓はわずかに跳ねた。
未唯の中に、自分が“揺れ”を生んだという事実が
信じられないほど嬉しかった。
しかし同時に、
その揺れを“好き”だと断定してはいけない、
という理性がブレーキをかける。
(まだ早い。
彼女は昔から義務だけで生きてきたって言ってた。
あれは……誰にも踏み込ませてはいけない領域に
僕が足を踏み入れようとしているんだ)
真は階段の踊り場で立ち止まった。
大きなガラス越しに、
春の光がキャンパスの芝生を照らしている。
(慎重にならなきゃ……)
自分に言い聞かせるように呟く。
***
真のアパートは大学から徒歩十五分の静かな住宅街にある。
部屋に戻ると、真はコートを椅子に投げ、
机の上のノートパソコンを閉じてから、
ベッドに背中を預けた。
未唯が語った言葉が、耳の奥で反芻される。
「……“ざわざわ”ってやつ、
関心の偏りなのかな……」
呟いた瞬間、胸がざわついた。
(……違う。勝手に決めるな)
真は自分に言い聞かせる。
未唯が感じた揺れは、
真が期待する“好き”とは違うものかもしれない。
(好き、って……なんだったっけ)
昨日は自分なりに三構造を整理した。
快、価値承認、関心の偏り。
それは確かに“好き”を説明する合理的な枠だ。
だが今の真の胸に押し寄せてくるものは、
その三構造だけでは説明できない“別の何か”だ。
(だって……)
真は天井を見上げる。
(未唯さんが……笑ったんだ)
それが胸の奥でどう作用したのか、
理屈では整理できなかった。
***
真は起き上がり、机の前に座る。
ノートを開いて、ペンを持つ。
■ 好きの再検討
タイトルを書いた瞬間、
胸の奥がじんわりと熱を帯びた。
(彼女の話を聞いて……
僕の“好き”は変わったのか)
ゆっくりペンを動かす。
■(1)僕の“好き”はNeigung(傾向性)だった
・外見的魅力
・雰囲気
・声
・存在そのものの印象
→ これは他律の好き
■(2)行為を起点にした好きは、まだ存在していない
・未唯のために行動した“結果としての快”は、まだない
・僕の行為はまだ“動機としての好き”に寄っている
■(3)未唯の揺れに触れて、僕の価値判断が変容している
・彼女の言葉を守りたい
・彼女の感情を急かしたくない
→ “保護”や“尊重”が先行している
(……これ、義務に近いのか?)
ふとそう思った。
(いや……違う。
義務は普遍化可能で、
僕のこの衝動は、普遍化できるものじゃない。
これは……僕だけのものだ)
真はゆっくり息を吐いた。
(じゃあ、この気持ちは……
いったい何なんだろう)
***
ノートを閉じ、
真はベッドに背中をあずけて目を閉じる。
昨日の未唯。
今日の未唯。
困った顔、迷う顔、目を伏せる瞬間。
全部が、胸に残っている。
(関心の偏り……。
これ、僕の方がよっぽど偏ってるよな)
苦笑が漏れる。
だけどその苦笑には、
昨日までにはなかった種類の“痛み”があった。
(僕は……
本当に彼女のことを好きなのか?)
自分で整理した“好きの三構造”が浮かぶ。
しかし今の自分の気持ちは、
その枠には収まらない。
(昨日の告白は……
ただの勢いだった)
それは認めざるをえなかった。
未唯を見た瞬間の衝動、
それは確かにNeigungだった。
(でも、今は違う)
ゆっくりと、胸に手を当てる。
(昨日の僕は、
自分が感じた“快”で動いていた。
だけど今は……
未唯さんが抱える“分からなさ”を
一緒に探したいって思ってる)
それは快から生じたものではなく、
もっと静かで深い衝動だった。
(……これって、
価値承認なのか?)
未唯の“正しさ”や“強さ”ではなく、
未唯という人間の“弱さ”や“苦しさ”を知ったことで、
真の中で新しい価値が芽生えた。
(そうか……
僕は、彼女の“分からなさ”そのものを
価値だと感じているんだ)
気づくと、胸が少し軽くなった。
***
真はノートに新しい項目を書き足す。
■(4)未唯の“分からなさ”が、僕の“価値承認”を生んでいる
■(5)理解しようとする行為が、
僕の好きに新しい形を与え始めている
書きながら、
真はゆっくりと頬が熱くなるのを感じた。
(こんな気持ち……初めてだ)
これまで真の恋愛は、
どちらかと言えば“外見的好意”から始まっていた。
だが未唯の場合は違う。
(未唯さんの“欠けている部分”を、
僕は埋めたいと思ってるわけじゃない。
むしろ、その“欠け”を大切にしたいと思ってる)
それが真にとって、衝撃だった。
(僕の好きは……
昨日の好きとは、もう違う)
***
夜になり、
真はデスクライトをつける。
ノートをもう一度開く。
■ 好き =
快(主観的)
価値承認(概念的)
関心の偏り(現象的)
+
“理解したい”という行為の方向性(新要素)
(行為の方向性……?)
真は眉を寄せた。
(これは、義務とは違う。
でも、感情でもない……)
しばらく考えて、
真はその正体に気づいた。
(これ、“志向性”だ……)
現象学で学んだ概念。
意識が常に何かへ向かう性質のこと。
(僕の意識は、
未唯さんの“分からなさ”に向かっている)
そう文字にして初めて、
自分の感情がどれほど強いかに気づいた。
(僕の好き……
もう戻れないところまで来てるな)
苦笑しながらも、
胸は静かに熱を帯びていた。
***
その夜、真はひとつの決意をした。
(急がない。
焦らない。
彼女が“選べる”ようになるまで……
僕はただ、隣で話す)
それは昨日までの真なら
絶対に持てなかった覚悟だった。
(……未唯さん。
いつか君が、自分の言葉で“好き”を言えるようになったら……
そのときの僕は、
今日みたいに自分の気持ちをごまかしたりはしない)
ペンを置き、
真は静かに目を閉じた。
胸の奥には
昨日とは違う種類の“好き”が
ゆっくりと形を持ち始めていた。




