表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
好きがわからない君へ告白したら、カント倫理学でフラれました。 ――それでも僕たちは、自律から始まる恋を続けていく  作者: 目田 不識(めた・ふしき)
第1章 未唯という“現象”

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

18/70

ep. 18 未唯の過去 ― 義務しか知らなかった少女が初めて自分の“選択”を考える

 真との会話がひと段落した頃、

 哲学棟の窓から入る柔らかな陽光は、

 未唯の心の奥を静かに照らすように感じられた。


(……分からないことが、少しだけ軽くなった)


 真と話していると、

 “分からなさ”の孤独が薄れていく。


 未唯はその感覚に驚きながらも、

 どこか安心していた。


***


「未唯さんは、さ……」

真が少し声のトーンを落として言う。


「どうして“義務”をそんなに大事にしてるの?」


「え……?」


 未唯は驚いた。


 自分が義務を大切にしていると

 言葉にしたことも、示したつもりもない。


(なんで……分かったの?)


 真は真剣なまなざしで続ける。


「だって、

 “好きが分からない”って言った理由の中に、

 義務の影が見える気がしたから」


「義務の……影?」


「うん。

 未唯さんは、

 “感じること”そのものに慎重すぎる。

 むしろ、“感じる前に行為を選んでる”ように見える」


 未唯の心臓が、一瞬だけ跳ねた。


(なんでそこまで……分かるの?

 私のことなんて、昨日まで他人だったのに)


 戸惑う未唯を見て、

 真はすぐに言い直す。


「もし違ったら、無視してくれていい。

 ただ……僕にはそう見えた。

 だから、聞いてみてもいい?」


 未唯は小さく息を吸った。


「……いいよ」


***


 未唯は、話すかどうか迷った。


(私が、義務を大事にしてる理由……)


 それは、

 未唯自身が長い間“封じてきた記憶”だった。


 そして真は、

 その扉に手をかけようとしている。


(……話した方がいいのかな)


 胸がざわつく。


 だけど逃げる理由もない。

 理解したいと思っているのは自分だ。


 未唯はゆっくりと口を開く。


「……私ね、小さい頃から……

 “義務”以外の選択肢がなかったんだ」


「……選択肢?」


「うん」


***


 未唯は語る。


 長崎の小さな町で育った。

 父は早くにいなくなり、

 母は朝から晩まで飲食店で働いていた。


「お母さん、すごく働いてたの……。

 朝起きたときも、夜寝る前も、

 家にいないことの方が多かった」


 だから未唯は、

 家事も片付けも、自分がやっていた。


「“やりたい”とか、なかったんだ。

 “やらなきゃいけない”が先にあっった」


 真は静かに頷く。


「……義務だったんだね」


「うん。

 誰かのためにやらなきゃいけないことをする。

 それが“良い子”で、

 “家族を支える当たり前のこと”だった」


 未唯は少しだけ笑った。


「だから、“好き”とか“嬉しい”とか……

 考える余裕がなかったのかもしれない」


***


「未唯さん……」


 真が言葉を探すように呟いた。


「それは……苦しかったよね?」


「……ううん」


 未唯は首を横に振った。


「苦しい、っていう感覚も分からなかったの。

 ただ、“やるべきこと”をやってただけ」


 その言葉には、

 悲しさよりも淡々とした事実の重みがあった。


 真はペンを握る手に力を込める。


(……この人は本当に、

 “感じる”ことより“義務”の中で生きてきたんだ)


 未唯の“好きが分からない”は、

 単なる未成熟ではない。


 義務だけで生きてきた人生の帰結だったのだ。


***


「だからね、真くん……」


 未唯は続ける。


「“好き”っていう感情がどういうものなのか、

 本当に分からないの。

 人を好きになったことがないし、

 好きだって言われても……

 どう返せばいいのか分からない」


「昨日の僕の告白も……?」


 未唯は小さく頷いた。


「うん。

 どう返すのが正しいのか……

 そればかり考えてた」


 真の表情がわずかに曇る。


「“正しいかどうか”で返そうとしてたんだ……」


「うん。

 だって、感情で返す方法が分からないから」


(ああ……そうだ。

 この人は“義務”で世界を見てるんだ)


 真は痛感した。


***


 未唯は静かに続ける。


「でもね……昨日から、

 なんか分からないけど……

 胸の中がずっとざわざわしてるの」


「ざわざわ?」


「うん……。

 真くんと話したこと思い出したり、

 今日のことを考えてたら……

 なんか、言葉にできない感じがして」


(それって……)


 真は喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。


(“関心の偏り”だ……)


 でも、言わない。

 その言葉を投げるには早すぎる。


 未唯はまだ“気づいてはいけない段階”にいる。


(急かしたら……壊れる)


 真は真面目な顔で頷く。


「うん、その“ざわざわ”……

 大事にした方がいいと思う」


「どうして?」


「未唯さんの中に、

 “行為の基準じゃないもの”が現れたんだよ」


「……行為の基準じゃないもの?」


「義務じゃない、ってこと」


 未唯は息を呑んだ。


***


「義務じゃない……」


 その響きは、

 未唯の心に深く食い込む。


 未唯にとって、

 義務とは生きることそのものだった。


 誰かのために、

 正しく生きるために存在するもの。


(義務じゃない……

 私は今、“義務じゃない何か”を感じてる?)


 胸がまたざわめいた。


「ねえ真くん……」


「うん」


「もし……もしだよ?

 私が昨日から感じてるこの“ざわざわ”が……

 その、“関心の偏り”ってやつだったとしたら……」


 言葉にするのが怖かった。


「……それって、“好き”なの?」


 教室の空気が、

 ひと瞬き止まったように感じられた。


***


 真は息を飲む。


(言いたい……けど……まだだ)


 答えは、自分が最もよく分かっている。

 しかし、それをそのまま渡してはいけない。


 未唯は、自分で選べるようにならなきゃ。


 自分の義務、自分の法、自分の感情。


 カントを信じる少女だからこそ、

 “自分で導き出す必要がある”。


 真は、静かな声で言った。


「……それは、

 未唯さん自身が決めるものだよ」


「私が……?」


「うん。

 “好き”は、

 誰かに教わるものじゃない。

 感じたものの輪郭を、

 自分の言葉で確かめるものだから」


 未唯はゆっくりと目を瞬いた。


 胸の奥が、

 ほんの少しだけ軽くなる。


(……選んでいいんだ)


 義務ではなく、

 誰かに言われた正しさでもなく。


“自分で選んでいい”


 未唯は、その事実に

 静かに、しかし強く揺さぶられていた。


***


 真はその表情を見て、

 心の底でひっそりと微笑んだ。


(よかった……。急がなくて)


 二人の距離はまだ遠い。

 けれど、確実に近づいている。


 未唯の“ざわざわ”は、

 確かに前へ進むための兆しだった。


(未唯さんにとって、

 これはきっと初めての……

 “義務じゃない揺れ”なんだ)


 その揺れを守りたい。

 そう思ったとき、

 真の胸にも、温かな何かが灯った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ