ep. 18 未唯の過去 ― 義務しか知らなかった少女が初めて自分の“選択”を考える
真との会話がひと段落した頃、
哲学棟の窓から入る柔らかな陽光は、
未唯の心の奥を静かに照らすように感じられた。
(……分からないことが、少しだけ軽くなった)
真と話していると、
“分からなさ”の孤独が薄れていく。
未唯はその感覚に驚きながらも、
どこか安心していた。
***
「未唯さんは、さ……」
真が少し声のトーンを落として言う。
「どうして“義務”をそんなに大事にしてるの?」
「え……?」
未唯は驚いた。
自分が義務を大切にしていると
言葉にしたことも、示したつもりもない。
(なんで……分かったの?)
真は真剣なまなざしで続ける。
「だって、
“好きが分からない”って言った理由の中に、
義務の影が見える気がしたから」
「義務の……影?」
「うん。
未唯さんは、
“感じること”そのものに慎重すぎる。
むしろ、“感じる前に行為を選んでる”ように見える」
未唯の心臓が、一瞬だけ跳ねた。
(なんでそこまで……分かるの?
私のことなんて、昨日まで他人だったのに)
戸惑う未唯を見て、
真はすぐに言い直す。
「もし違ったら、無視してくれていい。
ただ……僕にはそう見えた。
だから、聞いてみてもいい?」
未唯は小さく息を吸った。
「……いいよ」
***
未唯は、話すかどうか迷った。
(私が、義務を大事にしてる理由……)
それは、
未唯自身が長い間“封じてきた記憶”だった。
そして真は、
その扉に手をかけようとしている。
(……話した方がいいのかな)
胸がざわつく。
だけど逃げる理由もない。
理解したいと思っているのは自分だ。
未唯はゆっくりと口を開く。
「……私ね、小さい頃から……
“義務”以外の選択肢がなかったんだ」
「……選択肢?」
「うん」
***
未唯は語る。
長崎の小さな町で育った。
父は早くにいなくなり、
母は朝から晩まで飲食店で働いていた。
「お母さん、すごく働いてたの……。
朝起きたときも、夜寝る前も、
家にいないことの方が多かった」
だから未唯は、
家事も片付けも、自分がやっていた。
「“やりたい”とか、なかったんだ。
“やらなきゃいけない”が先にあっった」
真は静かに頷く。
「……義務だったんだね」
「うん。
誰かのためにやらなきゃいけないことをする。
それが“良い子”で、
“家族を支える当たり前のこと”だった」
未唯は少しだけ笑った。
「だから、“好き”とか“嬉しい”とか……
考える余裕がなかったのかもしれない」
***
「未唯さん……」
真が言葉を探すように呟いた。
「それは……苦しかったよね?」
「……ううん」
未唯は首を横に振った。
「苦しい、っていう感覚も分からなかったの。
ただ、“やるべきこと”をやってただけ」
その言葉には、
悲しさよりも淡々とした事実の重みがあった。
真はペンを握る手に力を込める。
(……この人は本当に、
“感じる”ことより“義務”の中で生きてきたんだ)
未唯の“好きが分からない”は、
単なる未成熟ではない。
義務だけで生きてきた人生の帰結だったのだ。
***
「だからね、真くん……」
未唯は続ける。
「“好き”っていう感情がどういうものなのか、
本当に分からないの。
人を好きになったことがないし、
好きだって言われても……
どう返せばいいのか分からない」
「昨日の僕の告白も……?」
未唯は小さく頷いた。
「うん。
どう返すのが正しいのか……
そればかり考えてた」
真の表情がわずかに曇る。
「“正しいかどうか”で返そうとしてたんだ……」
「うん。
だって、感情で返す方法が分からないから」
(ああ……そうだ。
この人は“義務”で世界を見てるんだ)
真は痛感した。
***
未唯は静かに続ける。
「でもね……昨日から、
なんか分からないけど……
胸の中がずっとざわざわしてるの」
「ざわざわ?」
「うん……。
真くんと話したこと思い出したり、
今日のことを考えてたら……
なんか、言葉にできない感じがして」
(それって……)
真は喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
(“関心の偏り”だ……)
でも、言わない。
その言葉を投げるには早すぎる。
未唯はまだ“気づいてはいけない段階”にいる。
(急かしたら……壊れる)
真は真面目な顔で頷く。
「うん、その“ざわざわ”……
大事にした方がいいと思う」
「どうして?」
「未唯さんの中に、
“行為の基準じゃないもの”が現れたんだよ」
「……行為の基準じゃないもの?」
「義務じゃない、ってこと」
未唯は息を呑んだ。
***
「義務じゃない……」
その響きは、
未唯の心に深く食い込む。
未唯にとって、
義務とは生きることそのものだった。
誰かのために、
正しく生きるために存在するもの。
(義務じゃない……
私は今、“義務じゃない何か”を感じてる?)
胸がまたざわめいた。
「ねえ真くん……」
「うん」
「もし……もしだよ?
私が昨日から感じてるこの“ざわざわ”が……
その、“関心の偏り”ってやつだったとしたら……」
言葉にするのが怖かった。
「……それって、“好き”なの?」
教室の空気が、
ひと瞬き止まったように感じられた。
***
真は息を飲む。
(言いたい……けど……まだだ)
答えは、自分が最もよく分かっている。
しかし、それをそのまま渡してはいけない。
未唯は、自分で選べるようにならなきゃ。
自分の義務、自分の法、自分の感情。
カントを信じる少女だからこそ、
“自分で導き出す必要がある”。
真は、静かな声で言った。
「……それは、
未唯さん自身が決めるものだよ」
「私が……?」
「うん。
“好き”は、
誰かに教わるものじゃない。
感じたものの輪郭を、
自分の言葉で確かめるものだから」
未唯はゆっくりと目を瞬いた。
胸の奥が、
ほんの少しだけ軽くなる。
(……選んでいいんだ)
義務ではなく、
誰かに言われた正しさでもなく。
“自分で選んでいい”
未唯は、その事実に
静かに、しかし強く揺さぶられていた。
***
真はその表情を見て、
心の底でひっそりと微笑んだ。
(よかった……。急がなくて)
二人の距離はまだ遠い。
けれど、確実に近づいている。
未唯の“ざわざわ”は、
確かに前へ進むための兆しだった。
(未唯さんにとって、
これはきっと初めての……
“義務じゃない揺れ”なんだ)
その揺れを守りたい。
そう思ったとき、
真の胸にも、温かな何かが灯った。




