ep. 17 再会 ― 揺れを抱えたまま向き合う午前の教室
翌日の午前、
哲学棟の三階にある小さな講義室は、まだ人影が少なかった。
窓際の席に座った広曽木真は、
黒いノートを開いたまま、ペンを指先で回していた。
昨夜、未唯からメッセージが来た瞬間、
なぜか深く息を吸い込んでしまった自分を思い出す。
(あの返信、早かったかな……)
勢いよく返してしまった気がする。
もっと落ち着いて返すべきだったかもしれない。
(でも……嬉しかったんだよな)
未唯が「話したい」と言ってくれたことが、
予想以上に自分の胸を満たした。
自分の感情に驚きつつも、
真の視線は自然と入口へ向かう。
扉が開き、未唯が静かに入ってきた。
***
未唯は、昨日よりも少しだけ
胸の鼓動が早い気がしていた。
(落ち着いて……落ち着いて)
自分に言い聞かせながら教室に入ると、
真がこちらを見て、小さく手を上げた。
その自然な仕草にまた胸がざわついた。
(なんで……こんなに気にしてるんだろう)
戸惑いを抱えながらも、
未唯は真の隣に静かに腰を下ろした。
「おはよう、未唯さん」
「……おはよう」
視線が合うと、
なぜか未唯は少しうつむいてしまう。
(……目を合わせるのも、なんか変)
これまで誰と話しても
こういう反応が出たことはなかった。
***
「昨日の話、続きをしたかったんだ」
真が静かな声で切り出した。
未唯は少しだけ肩を揺らす。
「……うん。私も、話したかった」
その返答を聞いた瞬間、
真の胸の奥が温かくなった。
(よかった……)
昨日の拒絶の重さが、
ほんの少しだけ溶けていく気がした。
「えっとさ、昨日話した“好きの三構造”。
あれ、少し整理してきたんだ」
真はノートを開き、丁寧に書き込んだ図を見せる。
快楽、価値承認、関心の偏り。
その三つの関係性が線で結ばれ、
矢印で因果が示されている。
「……昨日の話だと、
未唯さんは快とか価値とか、
その辺りがよく分からないって言ってたよね」
「うん……そうだね」
未唯は言いづらそうに頷いた。
***
真は少し表情を柔らかくした。
「でもさ、
昨日のメッセージ……“明日話したい”って、
あれは何だったんだろう?」
「え……」
未唯は一瞬固まる。
(なにそれ……ずるい質問じゃない?
私だって説明できないのに)
「……わ、分かんない」
視線を逸らしながら言う。
だが真は微笑んだ。
「分からない、でいいと思うよ」
「……そうなの?」
「“分からない”って、
理解したいって気持ちの裏返しだから」
その言葉は、未唯の胸を軽く震わせた。
(……理解したい)
昨夜、自分がノートに書いた言葉と同じだった。
***
「でも……」
未唯は少し躊躇いながら言う。
「昨日、真くんが話してくれた構造……
あれを自分に当てはめようとしてみたんだけど、
やっぱりよく分からなかった」
「……どう分からなかった?」
「うーん……」
未唯は言葉を探す。
「“価値を認める”って、
私にはまだよく分からないの。
誰かを見て、その人に価値があるって思う…
その感覚が分からない」
「でもさ」
真が言う。
「昨日の未唯さん、僕のことを
ちゃんと見てくれてたよね」
「……それは、そうだけど」
「なら、それが価値承認の最初の段階じゃない?」
「……そう、なのかな」
未唯は困ったように眉を寄せた。
(まただ……また、この“分からなさ”)
真の言葉の意味は理解できる。
でも、感覚として腑に落ちない。
そのギャップがもどかしかった。
***
真は、そんな未唯の表情を見て、
柔らかく微笑んだ。
「未唯さんさ、
分からないって言うとき、
ちゃんと“考えてる顔”してるよ」
「……考えてる顔?」
「そう。眉のあたりに出る」
「……見ないでよ」
「いや、ごめん。
観察しちゃう癖があって……」
未唯は思わず頬を押さえた。
観察——
その言葉を聞くだけで頬が熱くなる。
(そんなに……見てたの?
なんでそんなに……気にしてるの?)
胸のざわめきは、
昨日よりも明らかに強かった。
***
「昨日さ」
未唯が小さく声を出した。
「帰ってから……
少し考えてみたんだ。“好き”って何だろうって」
「ほんと?」
真の目が驚きと喜びで開く。
「……うん。
自分なりに分解しようとしてみたんだけど、
やっぱり、分からなかった」
「どこが?」
「“快”とか“価値承認”は、
なんとなくイメージできるの。
でも……」
未唯は胸に手を当てる。
「“関心の偏り”が……よく分からない」
「偏り?」
「うん……
誰かのことを何度も思い出したり、
その人の言葉を考え続けたりするっていう……
あの感じ」
言いながら、
自分が“誰を”思い浮かべているかに気づいて、
未唯は顔を赤くした。
(言っちゃった……)
目を伏せた彼女を見て、
真の胸も同時に高鳴った。
***
「未唯さん」
真は静かに言った。
「昨日から、僕のこと……
何回くらい思い出した?」
「な、なにその質問……」
「ごめん、ただの興味。
当てはめて考えると分かりやすいかなと思って」
「……そ、そんなの……」
未唯は言い淀む。
でも、嘘をつけない。
「……何度も、かな」
真の呼吸がわずかに止まった。
「……そっか」
「分かってるよ、これは“好き”とは違うの。
ただ、昨日の話を考えてたから……
だから思い出しただけ」
「うん、分かってる」
真は優しく頷く。
「でもね。
“何度も思い出す”っていう現象そのものが、
関心の偏りの重要な指標なんだ」
「……そうなの?」
「そうだよ。
人が“何度も考える”対象っていうのは、
それだけで心の中で重みを持ってる。
たとえそれが恋じゃなくても、ね」
未唯はその言葉を聞いて、胸の奥がざわついた。
(重み……?
真くんが、私の中に、重み……?)
その事実が、信じられないほどに怖くて、
そして同時に驚くほど温かかった。
***
「じゃあ、今日のテーマは……」
真が新しいページを開く。
「未唯さんの“分からない”の輪郭を探ることにしよう」
「輪郭……?」
「そう。“好き”の正体を探る前に、
未唯さん自身の“分からなさ”を整理したいんだ」
「……そんなこと、できるの?」
「できるよ。
むしろ、そこが一番大事かもしれない」
真の表情は、昨日の告白とは違っていた。
昨日の真はただ“好きだ”と伝えようとしていた。
今の真は“理解しよう”としている。
その違いが、未唯の胸に静かに沁みた。
(……理解されるって、こんな感じなのかな)
少しだけ、心が軽くなるような。
でも、まだ不安は残っている。
***
「未唯さん、
昨日さ……“好きが分からない”って言ったよね」
「うん……」
「僕、それを否定したいわけじゃない。
ただ、そこにどんな意味が込められているのかを
一緒に探したいだけなんだ」
「……探す?」
「そう。
“分からない”には種類があるから」
「種類……?」
未唯の頭にクエスチョンマークが浮かぶ。
「例えばさ、
A:経験がなくて分からない
B:概念として理解できない
C:言語化できない
D:感覚としてつかめない
E:認めたくなくて分からないふりをしている」
真は五つ書き出して、
未唯にノートを渡した。
「この中に、当てはまるものある?」
「…………」
未唯はしばらく沈黙した。
やがて、小さく呟く。
「……全部、かもしれない」
その言葉は、
自分で驚くほど素直に口からこぼれた。
***
真はゆっくりと頷き、
その答えを否定せずに受け止めた。
「全部でいいよ。
むしろ“全部”って答えられるのは、
すごく大事なことだと思う」
「……どうして?」
「だって、
未唯さんは“分からない”ことを
分かろうとしてるから」
その瞬間、
未唯はなぜか胸が熱くなった。
(……この人、本当にずるい)
そう思うほど、
真の言葉は優しかった。
***
教室の窓の外には、
春の陽光が柔らかく差し込んでいた。
その光の中で、
二人の会話は止まらず続いた。
未唯は、初めてだった。
“分からない”ことを、
誰かと一緒に探せるという感覚。
真は、初めてだった。
“好き”という言葉の代わりに、
“理解したい”という行為が
自分を動かしていること。
揺れながらも、
二人は確かに前に進み始めていた。




