ep. 16 未唯の独白 ― “分からない”と向き合うための夜
夜のアパートは、ひどく静かだった。
大都乃未唯は机に座って、
一冊のノートの前でペンを止めたまま、
しばらく動けずにいた。
真と話し終えた後から、
胸の内側で何かがくすぐったく疼いている。
(……なんか、変だ)
落ち着かない。
でも嫌ではない。
未唯はこういう感覚の扱い方を知らなかった。
感情について、
自分は“普通の人より劣っている”のだと
長い間思い続けてきた。
何が嬉しいのか、悲しいのか、
人がどうして恋をするのか、
よく分からないまま大人になった。
(真くんは……どうしてあんなふうに話せるんだろう)
どんな問いにも、ためらわず答えようとする。
理屈で整理し、言葉にして渡してくれる。
その明晰さに、未唯は時折嫉妬さえした。
(いや……嫉妬なのかな?
そういう感情なのかよく分からないけど)
未唯はノートを開いた。
上には震える字で、ただ一言だけ書かれていた。
「好きが分からない」
書いた本人が言うのもおかしいが、
この言葉は自分にとって残酷だった。
(分からないって……なんだろう)
未唯はペンを動かす。
■「分からない」とは、判断できないこと
■判断できないのは、基準がないから
■基準がないのは、経験が少ないから
■経験が少ないのは、避けてきたから?
そこまで書いて、未唯は手を止めた。
(避けてきた……?)
その言葉は胸に小さく刺さった。
未唯は思い返す。
幼い頃から、恋愛の話が苦手だった。
友達が「この人が好きだ」と楽しそうに話すと、
未唯はその輪からそっと距離を置いた。
その感覚がどういうものか分からず、
話についていけないことが恥ずかしかった。
(……避けてたのかもしれない)
気づいてしまうと、胸が少し痛んだ。
***
机の上には、
講義で使っているカントの文庫本が置かれていた。
未唯はそれを手に取ると、
ゆっくりページをめくった。
“傾向性に基づく行為は他律である。
自律とは、道徳法則に従うこと。”
(これが……私が信じてきたもの)
未唯にとってカントは“救い”だった。
好き嫌いが分からない自分でも、
「義務に従えばいい」と示してくれる哲学だったから。
他の人にとって恋愛が幸せでも、
未唯にとっては義務に従う方がはるかに安心だった。
(でも……今は、少し違う)
今日の真の言葉が頭に浮かぶ。
「好きってさ、
価値を認めて、快があって、
それで相手を考える時間が増えるってことなんだ」
(……価値を認める、快、関心の偏り)
その三つを自分に照らす。
(真くんのこと、価値を認めてる?)
(一緒にいると、落ち着くのは……“快”なのかな?)
(今日みたいに何度も思い出してるのは、
“関心の偏り”なんじゃないか?)
一つ一つ問いを立ててゆく。
すると未唯は、胸がじんわりと熱くなるのを感じた。
(……やだ、これ、もしかして)
未唯はペンを握る手が震えた。
これまでの人生で、
こんなふうに誰かを思い返すことはなかった。
せいぜい、母の体調の心配くらい。
それが、今は違う。
真がどう思っているか、
明日どう話そうとしているのか、
自分がどう感じているか。
全部、気になってしまう。
(こんなの……困る)
そう思う一方で、
その“困り感”が不思議と嫌ではない。
むしろ、初めて味わう種類の温度だった。
***
未唯は顔を両手で覆った。
(好き……じゃないよね?
だって、“分からない”んだから)
自分の中に芽生えたものに名前をつけたくない。
でも、名前をつけないまま持っているのも苦しい。
(真くんに……会いたい気がする)
その瞬間、心臓が跳ねた。
(……今のは、何?)
未唯は胸に手を当てた。
脈が速い。
でも、それが嫌ではなかった。
むしろ——
(頬が熱い……)
まるで自分じゃないみたいだ、と思う。
***
未唯はもう一度ペンを取る。
■私にとって、好きとは何か?
新しい問いを書き足した。
(明日、真くんと話せば……
何か分かるかな)
そう思って小さく笑った瞬間、
自分の笑顔に驚いた。
(なんで笑ってるの、私)
分からない。
でも、自然と笑ってしまった。
未唯は深呼吸して、スマホを手に取る。
「明日、少し話せますか?」
送信してすぐに、心臓の鼓動が早くなる。
これが“期待”なのかどうかも分からない。
けれど、返ってきたメッセージを見て、
胸の奥が柔らかくなる。
「もちろん。何時でもいいよ」
(……なんでこんなに素直なの)
未唯は苦笑した。
(真くんって、ほんと……真面目だ)
その真面目さが、少し羨ましい。
そして少し、嬉しい。
***
布団に入っても眠れなかった。
(明日、何を話そう)
思考は堂々巡りする。
(好きって、本当に“快”なの?
価値承認って、どういう意味?
私は真くんの何を見ているんだろう)
考えれば考えるほど、
答えが遠ざかっていく気がした。
(……でも)
今日の話し合いで、確かに分かったこともある。
(私は、“分かりたい”んだ)
それは、未唯にとって大きな気づきだった。
好きかどうか分からないのではなく、
分かりたいのだ。
感情を理解したい。
真が言ったことを確かめたい。
そして、この胸のざわめきの正体を知りたい。
(明日……ちゃんと話そう)
そう決めると、ようやく眠気が訪れた。
未唯は目を閉じる。
その夜、彼女は初めて、
自分の“揺れ”に寄り添おうとしていた。
その揺れが恋の始まりなのか、
ただの興味なのか、
まだ分からない。
けれど、
確かに一歩だけ、前に進んだ。




