ep. 14 未唯の沈黙 ― 分からなさを抱えた少女の夜
告白された日の夜。
大都乃未唯は、自分の部屋でずっと机に向かっていた。
机の上には、カントの『実践理性批判』と薄いノートだけ。
しかしページは一向に進まない。
(……分からない)
未唯は何度も本を閉じ、何度も開いた。
注意力はどこかへ蒸発し、文字が目の前で霧のようにぼやけていく。
理由は、分かっている。
広曽木真に告白されたからだ。
けれど、その事実を思い出すだけで胸が締めつけられ、
息が浅くなる。
(どうして……私は、こうなんだろう)
恋愛のことが分からない。
「嬉しい」の意味が分からない。
自分の感情の輪郭がつかめない。
ずっとそうだった。
***
未唯は、母と二人で暮らしてきた。
幼い頃から母はフルタイムで働き、帰宅は遅い。
家事は未唯が自然に引き受けるようになった。
母は暖かい人だ。
優しく、働き者で、未唯を誰より大事にしてくれる。
それでも、未唯は幼い頃から一つだけ分からないことがあった。
(……お母さんって、私のどこを“好き”なんだろう)
望まれたことはある。
笑いかけられたこともある。
頭を撫でられたこともある。
でも、“好き”という言葉の意味がずっと掴めなかった。
母は忙しすぎた。
自分を犠牲にしすぎた。
その背中を見て育った未唯は、
いつの間にか「自分の感情を後回しにする癖」を身につけてしまった。
(嬉しい……とか、悲しい……とか、私にははっきりこない)
はっきりしない感情は、未唯にとって“分からないもの”でしかなかった。
***
そんな自分でも、学問は分かった。
カントの文章は難しいが、誠実だった。
「自律」「義務」「普遍化可能性」
これらを読み込んでいると、
自分の中の揺れが一時的に整っていく気がした。
——にもかかわらず。
昨日、真に告白されたとき未唯が感じたのは、
“恐怖”でも“嫌悪”でもなかった。
(……温かい、ような?)
胸の奥がふっと熱くなった。
息を吸うのがうまくいかなくて、戸惑いが走った。
(これって……何?)
それが分からなかった。
未唯にとって分からないものは“危険”だった。
だから「ごめんなさい」と答えるしかなかった。
(あれは……拒絶なのかな。それとも……ただ逃げただけ?)
未唯は唇に指をあて、首をかしげた。
真は優しい。
怒らないし、無理を言わないし、距離も詰めてこない。
なのに、なぜ昨日はあんなにも焦ってしまったのか。
(……広曽木くんが“本気”だったから)
その瞬間、未唯は机の下で膝を抱えた。
心臓が跳ねている。
本気で向き合われると、未唯はどうしていいか分からない。
何を返せばいいのか分からない。
何を求められているのか分からない。
(私には……何も分からないのに)
誰かに何かを返せる人間ではない。
そう思っている。
***
翌日、大学の図書館で真に会ったとき、
未唯は“分からない”まま話し始めた。
「優しく……怒らない……それが好き、なのか分からないんです」
あれは嘘ではなかった。
未唯は本当に分からないのだ。
(でも……広曽木くんは、怒らなかった)
それが未唯には不思議だった。
拒絶されたのに、普通に接してくれた。
気まずさも、距離も、嫌悪も見せない。
むしろ昨日より柔らかくなっていた。
(どうして……そんなふうに接してくれるの……?)
未唯は心の中で首を傾げ続けた。
この「どうして」が、未唯の世界ではとても重い。
人に期待すると裏切られる。
人に甘えると迷惑になる。
人に頼ると負荷をかける。
そう思って生きてきた未唯にとって、
真の反応は理解できない領域にあった。
(……広曽木くんは“私に期待してない”のかな)
ふと、そんな考えがよぎった。
もしそうなら、安心できる。
未唯は“期待されない関係”の方が安らぐのだ。
(でも……そうじゃない気もする)
真の目を思い出す。
あの視線は“期待”ではなく、“信頼”だった。
(……信頼、って何?)
また分からない言葉が増えた。
***
図書館を出た帰り道、
真に言われた言葉が未唯の頭の中でずっと反芻され続けた。
「僕と話すときだけ、声が優しくなるんですよ」
(優しく……? 私の声が……?)
未唯は、自分の声の調子なんて意識したことがなかった。
他人の声の変化には敏感だが、自分の変化には鈍い。
(無意識……って言ってた)
無意識に優しくなる。
そんなことがあるのだろうか。
(でも……もし本当にそうなら……)
未唯は足を止め、夜の風に目を閉じた。
胸の奥がじわっと熱くなる。
昨日よりも強く、今日の方がはっきりと。
(これが……“嬉しい”なの?)
完全な答えにはならない。
だが、昨日よりも近づいていた。
***
夜、家に帰ってから、未唯は一つの疑問に向き合い始めた。
(私、どうして……広曽木くんのことを“嫌じゃない”んだろう)
未唯にとって“嫌じゃない”ことは大きな意味を持つ。
恋愛が分からない。
好意が分からない。
感情の輪郭も薄い。
そんな自分でも、
——嫌ではない
——話していたいと思う
——もっと知りたいと思う
これは未唯の世界では限りなく“特別”に近い。
(これは……好き、なの?)
真のことを思うと、胸が温かくなる。
その温かさは苦しくなく、優しい。
未唯は胸に手を置いた。
(……怖い)
そう、小さく呟く。
怖い。
でも、知りたい。
逃げたい。
でも、触れていたい。
矛盾した感情が、未唯の胸の中で静かに混じり合っていた。
(広曽木くんと……もっと話したい)
その一言を頭の中に置いただけで、
胸の奥がふっと軽くなった。
(あ……これが“関心の偏り”……?)
昨日、真が言っていたあの言葉。
“好きには必ず関心の偏りがある”
それが、今なら少しだけ分かる。
(もしかして……私は……)
ここまで考えて、未唯は首を横に振った。
(違う。まだ……分からない)
だが、分からないままでも進める道がある。
それを今日、真が示してくれた気がした。
「それで十分ですよ」
(十分……なんだ)
その言葉は、未唯が今まで生きてきた世界には存在しなかったものだ。
“分からないままでもいい”
“未完成のままでもいい”
“曖昧なままでもいい”
そんなふうに自分を扱ってくれた人は、他にいなかった。
(広曽木くん……)
未唯は胸の中でその名前を静かに呼んだ。
(昨日“拒絶”したはずなのに……
どうして私は、今日こんなに彼のことを考えているんだろう)
その問いは、答えがない。
けれどその“答えのなさ”が、未唯には不思議と心地よかった。
(……明日も、話せるかな)
その期待を自覚したとき、未唯は初めて、
微かに微笑んだ。
小さく、小さく、ほんの少しだけ。
(……これが、嬉しい……?)
揺れる感情の正体をつかめないまま、
しかし確かに何かが芽生え始めていた。
***




