ep. 13 揺らぐ直観 ― 空白に触れた男の戸惑い
未唯が「分かりません」と言った瞬間、
広曽木真の胸の奥に、説明しがたい響きが生まれた。
それは、恋に落ちたときの甘い感覚とは違う。
もっと静かで、もっと深く、もっと厄介な響きだった。
(そっか……分からない、のか)
真はノートの縁を指でなぞりながら、
未唯の横顔をちらりと見つめた。
どこにも隙がない。
整った顔立ち、美しい姿勢、澄んだ声、淡々とした言葉。
まるで“感情”というものを排した精密な機械のようにも見える。
だが、その内部に“揺れ”があった。
今日の未唯は、明らかにどこかが変わっていた。
指先が少し震える。
目線が以前より柔らかい。
声が、ほんのかすかに揺れている。
(なんだろう、この感じ……守りたくなるような、触れたくないような、そんな矛盾が同時に来る)
真は思った。
昨日の告白は、勢いだった。
感情が溢れてしまって、押さえることができなかった。
だが、今日の未唯と話していると、
あの言葉は勢いではなく“必然”だったように感じ始めていた。
***
(未唯さんって……ほんと、感情の扱いが不器用なんだな)
真はコーヒーを一口飲んでから、未唯のノートを眺めた。
そこには整った字で、こう書かれていた。
「感情の揺れ:原因不明」
「優しさ:負担?」
「関心の偏り:観察継続」
(まるで哲学論文だ……いや、哲学論文よりも誠実かもしれない)
真は苦笑してしまう。
誰かに“優しくされた経験があるか”と聞いて、
本気で「分かりません」と答える人間がいるだろうか。
(そんな人、初めて見たよ)
その“空白”が、真にはたまらなく魅力的に映った。
空白は脆い。
空白は傷つきやすい。
空白は、少し触れただけで世界が変わる。
未唯の内部に広がるその“空白”に触れてしまった瞬間、
真は彼女から目を離せなくなったのだ。
***
——どうして僕は、こんなにも未唯さんに惹かれるんだろう。
真は自問した。
正直、見た目だけならもっと派手で分かりやすい子はいくらでもいる。
笑顔の多い子、気配りのできる子、感情豊かで賑やかな子――
そういうタイプの方が、恋愛としては普通だ。
未唯はそのどれにも当てはまらない。
・笑わない
・怒らない
・興味を持たない
・恋愛経験がほぼゼロ
・感情表現が極端に薄い
それなのに、なぜか惹かれる。
(……たぶん、強いからだ)
強い、という表現が正しいのかは分からない。
ただ、未唯の沈黙の奥には“たくさんの何か”が詰まっている気がした。
真は思った。
(母親の影響だろうな……)
未唯自身が話したのはわずかだったが、その言葉の端々に“家族の空気”が滲んでいた。
親の苦労を知っている子は、
自分の欲求を抑える癖がつく。
誰かを困らせたくない、
自分で何とかしようとする、
弱音を吐けない、
甘えられない。
真は少し胸が痛くなった。
(昨日の告白……あれ、きっとすごく負担だったよな)
未唯は“望まれた”経験が少なすぎる。
だから、望まれると怯える。
好きと言われれば、拒絶するしかない。
(でも……拒絶は拒絶じゃなかった)
未唯は“分からない”と言っただけだ。
嫌いだとは一度も言っていない。
(むしろ……今日の感じだと、ちょっとは近づいてくれてるのかな?)
真は胸が熱くなった。
***
「広曽木くん」
未唯が急に話しかけてきた。
「はい?」
「……今日の私、変ですか?」
真は一瞬、固まった。
(変、なんてもんじゃないよ。むしろ……可愛い)
そう内心で叫びながら、言葉は慎重に選んだ。
「変じゃないですよ。
ただ……ちょっと嬉しそうに見える時があって」
「え……?」
未唯は、きょとんとした。
その表情があまりに無防備で、真の呼吸が止まりそうになった。
「だって……昨日、拒絶したはずなのに」
「拒絶、というより……戸惑ってるだけじゃないですか?」
「戸惑い、ですか……」
「うん。
拒絶って、もっとはっきりしたものだと思うんです。
未唯さんのは……“距離の測り方が分からない”って感じで」
未唯は数秒黙り、真の言葉を吟味するように考えた。
「……確かに、それはあります」
「ほら」
「でも、“嬉しそう”に見えるというのは……違います」
「違わないと思いますよ」
「……どうしてそう思うんですか」
「だって、僕と話すときだけ、声が少し優しくなるから」
未唯の視線が驚きに揺れた。
頬がわずかに赤くなる。
(あ……これ、照れてる……?)
その反応があまりに稀少で、真は胸が跳ねた。
未唯が感情を見せる瞬間は、まるで宝石のように貴重だ。
「そんなつもりは……」
「つもりじゃなくて、無意識ですよ」
「無意識……」
未唯は小さく呟き、視線を落とした。
(ああ……なんでこんなに可愛いんだろう)
真は心の中で何度もため息をつく。
***
(好きに理由なんていらないのかもしれないけど……)
真は自分の胸の奥にある“確信”を言葉にする。
(未唯さんの空白を、僕はずっと前から見ていたんだ)
だから気になった。
だから放っておけなかった。
だから惹かれた。
未唯の空白は、欠陥ではない。
そこに「これから満たされていく何か」がある。
それを誰かと一緒に埋めていける。
そう思わせてくれる。
真は気づき始めていた。
(……僕は、未唯さんを好きになったんじゃない。
“好きになる未来”を見てしまったんだ)
未来の未唯は、今よりもっと感情豊かになっているだろう。
もっと自分を表現できるようになるだろう。
もっと人に頼れるようになるだろう。
(その未来の隣に、僕がいたいんだ)
それが、真の本当の気持ちだった。
***
未唯がふと、真を見つめた。
その瞳の奥に、昨日にはなかった“揺れ”があった。
「広曽木くん……」
「はい」
「……私、まだ“嬉しい”が分かりません。でも……」
「でも?」
「広曽木くんと話すと……胸が温かくなります」
真は、言葉を失った。
(……やばい)
本当にやばい。
これ以上聞いたら、また告白してしまう。
(まだ早い。まだ早いんだって……!)
心の中で自分に言い聞かせながら、
真は深呼吸した。
「……それで十分ですよ」
「十分……なんですか?」
「はい。むしろ……救われました」
未唯は少しだけ目を丸くして、それから微かに笑った。
その笑顔は、昨日の拒絶の影を完全に溶かしていた。
(……ああ、これは……)
真は確信する。
(僕の気持ちは、もう止まらない)
***




