ep. 12 母の沈黙 ― 感情を学べなかった少女
ノートに「関心の偏り」と書いた指先が、わずかに震えていた。
震えている理由は分からない。
ただ、心のどこかが“揺れている”ことだけは確かだった。
広曽木真の表情を見ながら、未唯はふと、自分がどこで“揺れない人間”になったのかを考え始めていた。
(……昔のことを思い出すの、珍しいな)
授業でもプライベートでも、未唯は自分について語ることが極端に少ない。
過去を分析することもほとんどなかった。
それは、必要がなかったからではなく、自分の“内部”には触れたくなかったから。
だが真と話していると、無意識のうちに幼い頃の記憶が浮かんでしまう。
***
未唯の母は、感情というものをほとんど外に出さない女性だった。
喜怒哀楽がないわけではない。
ただ、家計を支え、仕事を繋ぎ、生活を回すことで一日が終わる生活の中で、“感情”は優先順位の外にあった。
朝、母は黙って弁当を作り、黙って未唯を見送り、
帰宅すれば黙って洗濯物を畳んだ。
未唯はその背中を見ながら育った。
母は優しくなかったわけではない。
どちらかと言えば、優しすぎた。
未唯が何かを望むことが、母の負担になると理解していたのだ。
(だから、私は望まない子になったんだろうな)
未唯が小学二年生の頃、遠足の前日に「おやつ、少し多く買っていい?」と聞いたときのことを思い出す。
母は困った顔をして、財布を見つめ、その後で静かに頭を撫でた。
「……ごめんね。今月はちょっと厳しいんだ」
母のその声の震えが、未唯には苦しくてたまらなかった。
「ううん、大丈夫。いらない」
未唯は即座にそう言い、笑顔を作った。
母を救うために。
(たぶん……あれが、私の“欲求の死んだ日”なんだと思う)
その日以来、未唯は望むことを完全にやめた。
欲しがることは、母を苦しめる。
求めることは、誰かの負担になる。
そうして、未唯の感情はゆっくりと“棚にあげられる”ようになった。
棚の奥に置かれたまま、誰にも気づかれず、未唯自身も取り出し方を忘れた。
***
中学、高校と進むにつれ、未唯はさらに“合理的な子”として周囲に認識されていった。
・問題が起きても泣かない
・人間関係で揉めない
・要求しない
・怒らない
・恋愛の噂もない
そうして周りは勝手に納得した。
「大都乃って、なんか……落ち着いてるよね」
「感情ないのかな?」
「いや、落ち着きすぎなんだよ」
「仏みたい」
(違う。ただ、取り出せないだけだった)
感情を失ったのではなく、
“取り扱わない”癖がついていただけ。
でもそれは、周囲からは「大人びている」と見られ、教師からは「安心できる子」と言われた。
誰も未唯の内部を疑わなかった。
(私も……疑わなかった)
自分に感情がないのだと信じた方が、ずっと楽だった。
感情を扱えば、壊れてしまう気がしたから。
***
だから――
ここ数日の変化は、未唯自身にとって“事件”だった。
・胸がざわつく
・心が揺れる
・誰かを意識してしまう
・話したいと思ってしまう
・その誰かが、広曽木真である
(こんなの……初めてだ)
ノートにまた書く。
「感情の揺れ:原因不明」
真はその文字を見て、柔らかく笑った。
「……未唯さんは、ほんと真面目に感情を扱うんだね」
「扱い方が分からないから……こうするしかないんです」
「でも、扱おうとしてる。それが大事だと思う」
未唯はその言葉に胸が温かくなった。
その温かさは、母に言われたことのない種類の言葉から生まれた。
(……どうして、そんなふうに言ってくれるの)
未唯は自分の手をぎゅっと握る。
母の愛は沈黙だった。
沈黙に包まれた生活では、褒められること、認められることが少なすぎた。
だから、真の言葉は未唯にとって、
“感情の扱い方を初めて教えてもらっている”ように感じられた。
***
そのとき、真が少し真剣な声で問いかけた。
「……未唯さんは、誰かに優しくされた経験って、ある?」
「え?」
未唯の胸が一瞬、跳ねた。
「その……大切にされた経験とか」
「……分かりません」
未唯は正直に答えた。
本当に分からないのだ。
優しさは、母の労働の中に埋もれていた。
大切にされるという感覚は、“過不足なく扱われる”ことと区別できなかった。
そして、その曖昧さが、今の未唯の“好きの空白”を作っている。
(私は……誰かに大切にされたことがあるのだろうか)
そう考えた瞬間、胸の奥で小さな痛みが生まれた。
その痛みが何の感情なのか、
未唯はまだ知らない。
***
真が静かに言った。
「……じゃあさ。
僕が優しくするのは、未唯さんにとって“負担”かな?」
その問いが、未唯の内部で深く響いた。
(負担? ……負担?)
母の顔が脳裏に浮かぶ。
望むことが母を苦しめたあの日。
だから、望まなかった。
だから、求めなかった。
だから、誰の優しさも受け取らなかった。
(でも……今は?)
真の優しさに触れると、胸がざわつく。
それは痛みではなく、温かさに近い。
(負担じゃない……のかも)
しかし、その言葉をそのまま口にする勇気はなかった。
「……まだ、分かりません」
「そっか。
でも、分からないって言ってくれるのは、僕は嬉しいよ」
また胸が熱くなる。
(ああ……これ、昨日も感じた)
一度何かが溶け始めると、次の“温度”を拒めなくなる。
未唯の胸の奥が静かに緩んでいく。
(……怖い。でも、嫌じゃない)
この混じった感情の正体を、未唯はまだ定義できない。
しかし、真の言葉が心を少しずつ動かしていることだけは、否定できなかった。
***
ラウンジの窓から、午後の日差しが柔らかく差し込む。
その光の中で、未唯はふと、静かに思った。
(あの日、母が謝ったとき……
私、本当は“悲しい”って言いたかったんだろうな)
ずっと封印してきた感情が、微かに輪郭を取り戻す。
その輪郭を与えたのは、
昨日から未唯の生活に入り込んだ一人の人間――
(……広曽木くん)
未唯は胸に手を当てた。
温度がある。
それは明らかに“ゼロ”ではなかった。
(好きが分からなくても……
この温度だけは、確かなんだ)
そう思えた瞬間、未唯の心の奥が静かに揺れた。




