ep. 11 未唯の輪郭― 感情より先に義務があった
翌日の昼休み。
図書館上階の静かなラウンジには、まだ人影がまばらだった。
窓からは秋晴れの光が白く差し込み、机の上に柔らかな影を落としている。
大都乃未唯は椅子に座り、ノートを広げたまま、指先で端をそっと撫でていた。
広曽木真と約束した時間まではまだ十分にある。
けれど、落ち着かない。
胸の奥がざわついている。
その理由を、未唯はまだ言葉にできなかった。
(昨日の……議論のせいだ)
そう心の中で呟くと、胸のざわつきがわずかに強まった。
未唯は思わずペンを握り、ノートの端に小さく「ざわつき」と書く。
記録癖だ。
彼女は感情の扱いが苦手なため、何か感じるたびに、まず言葉として書き留めることにしている。
書いたところで理解が深まるわけではないが、書かないよりはましだった。
(……ああ、まただ)
昨日からこの繰り返しだ。
“理解できない感情”が、自分の中に立ち上がるたびに戸惑う。
***
未唯の人生は、静かで、淡々としていた。
長崎で生まれ、母一人に育てられた。
父は物心つく前に家を出て行き、未唯の記憶には影だけしか残っていない。
母は仕事をかけ持ちしながら暮らしを支え、未唯は家事を分担し、学校に通った。
幼い頃から「わがまま」を言う余地はなかった。
望みを口にすると、母が疲れた顔をする。
だから望まなかった。
感情を出すと、家庭の均衡が揺らぐ。
だから感情を抑えた。
気づけば、“自分の欲求を意識しない”ことが、未唯の当たり前になっていた。
(……だから、好きなんて分からないのは当然なのかも)
未唯はノートに「好き =未定義」と書く。
書いた瞬間、背筋にぞくりとした冷たさが走った。
(未定義。……そう、私はまだ未定義なんだ)
それは痛みと同時に、どこか安心感すら伴っていた。
未唯は、自分の“空白”を知っている。
その空白を埋めようとしたことは、これまで一度もなかった。
***
転機は、大学で哲学に出会ったことだった。
特にカント倫理学の「自律」という概念は、未唯にとって救いだった。
――義務は他人から押しつけられるものではない。
――自分で法則を立て、その法に従って行為することが“自由”である。
この一文に出会った日、未唯は初めて涙をこぼした。
(私でも……自分の法を持てるの?)
幼い頃から、義務は“生きるための負担”であり、他人が決めた枠に従うことだと思っていた。
それがカントによってひっくり返された。
義務とは自由だ。
自律とは、自分で自分を導くことだ。
(だから私はカントが好きなんだ)
“好き”。
またその言葉が胸にひっかかる。
(ああ、また……)
胸がざわつく。
未唯はそっと手で押さえる。
この“ざわつき”は、昨日から何度も襲ってきた。
(広曽木くん……)
その名前を思い浮かべた瞬間、ざわつきはさらに強くなった。
未唯は驚き、すぐにその思考を追い出そうとする。
(だめ。考えたら……もっと分からなくなる)
感情に寄り掛かってしまいそうになる。
それが怖かった。
***
ラウンジの自動ドアが開き、誰かが入ってくる音がした。
未唯はそっと顔を上げる。
広曽木真が立っていた。
今日はいつもより少しだけ緊張した表情をしている。
「あ、未唯さん。……早かったね」
「い、いえ。私が早すぎただけで……」
自分でも驚くほど声が上ずっていた。
未唯は小さく咳払いし、ノートを閉じた。
(落ち着いて……いつも通りで)
しかし“いつも通り”という基準が、昨日から揺らぎ続けている。
真が未唯の向かいに座り、柔らかい笑みを見せた。
「昨日の話の続き、していい?」
「はい……ぜひ」
その瞬間、未唯は自分の声がほんのわずかに弾んでいるのに気づいた。
それを誤魔化すように、ノートを開き、ペンを走らせる。
(私は……どうしたいんだろう)
真が話し始める。
未唯は頷きながら、メモを取る。
でも、意識の一部は真の表情や声の揺らぎを追っていた。
昨日までは気づかなかった視線の動き。
声の温度。
言葉の選び方。
未唯は突然、自分が“観察している”ことに気づき、胸が強く跳ねた。
(あ……これが関心の偏り?)
真が昨日語った概念。
未唯はその意味を、今ようやく身体で理解し始めていた。
好きがわからない。
それは変わらない。
けれど――
(広曽木くんの話を、もっと聞きたい)
その欲求だけは確かに自分の中に芽生えている。
未唯はそっと胸に触れた。
その感覚を記録しようと、ノートに書く。
「関心の偏り……?」
真が小声で読み上げ、少し驚いた顔をする。
「う、うるさいです……聞こえます……」
「ごめん。でも、なんか嬉しい」
「な、なぜですか……!」
頬が熱くなる。
未唯は顔を伏せた。
真は笑わず、丁寧な声で言った。
「未唯さんが、自分の言葉で考えようとしてくれてるのが、すごく嬉しい」
その瞬間、胸の奥で、昨日と同じ“温かいざわつき”が広がった。
(……これが、快?)
未唯には分からない。
でも、悪くなかった。
そんな自分に戸惑いながら、未唯は小さく息をついた。
(昨日の拒絶は……ここから始まる関係のための“空白”だったのかもしれない)
未唯は、自分が少しずつ変わり始めていることに気づきながらも、
その変化にまだ名前を与えられないでいた。




